第六テーマ館
自国の歴史を背負うこと、他国の歴史を理解すること
近頃、戦争を語ること自体が、なぜかとても難しい時代になってしまったような気がします。
もっとも、「戦争」というテーマ自体、いつの時代でも決して容易く語れる問題ではないのですが、反核・反戦・平和とい
ったスローガンを唱えるだけでは、人びとのこころにその思いがほとんど伝わらないのではないかといった恐れを近頃 ひしと感じます。
えてして戦争の忘れかけている悲惨な実態をふたたび伝えることさえできれば、そんな危惧はいらないかのようにも
思われがちですが、まず第一に、その戦争の実態を伝えること自体が
まだ客観的真実、ただの事実としてのレベルで最近意見が分かれてしまっているかの様相を示しており、その意味で
一筋縄ではいかないことがあります。
もうひとつは、戦争を知らない新しい世代が増えるにしたがって、歴史の継承自体にも疑問を投げかけられることが
おきていることです。
これは、日航機事故の責任のゆくえのページでもふれたことですが、ある戦後世代の国会議員が「私は戦争当事者
といえない世代であるから、反省なんかしていない。反省なんか求められるいわれもない」といった発言が、一般的に は暴言として通っていますが、この国会議員の発言は、戦後世代の多くの若者のなかに、口には出さなくても共通して 潜んでいる信条をかなり代弁してるともとれます。
もちろん、戦争に参加していない戦後世代の一国民に戦争責任があるわけではありません。
しかし、他国の人々にたいして日本人が語る場合は、そうはいきません。
ダグラス・ラミス著『ラディカルな日本国憲法』(晶文社)のなかにこんな場面の描写がありました。
ある大学で戦争体験者を招いて、その体験談を講義のなかで話してもらうという企画で、講師が深刻な話や戦争の
悲劇を語れば語るほど、参加する学生の数が減っていってしまったことがあったそうです。
あとで学生に話を聞くと
「私にどうしろというのですか。まだ生まれていなかったんですよ」
「あんな“暗い”話をどうしてしたがるのかわかりません」
ひと頃ほど、なにごとも「クラーイ」の一言で片付けてしまう若者の風潮こそ少なくなってきましたが、こうしたひとたち
の「気分」に、小林よしのりの『戦争論』や「新しい歴史教科書をつくる会」は、時代とともにとてもマッチした論調を展開 しているともいえます。
【関連余話】
ちょっとよその本屋さんで、野球評論家の角ミツ男著『野村ノートの読み方』(カッパブックス)を立ち読みしていたら、
「昔話は反発を食らうだけ」というくだりがありました。
「野村監督の話の中には、昔の選手をサンプルとして取り上げることはあっても、「昔話」「自慢話」の類いはほとんど入ってこない。
以前、聞いたときに、「それは努めて言わないようにしている」と話していた。
何の世界でも同じで、今の若い人は「昔話」の類いをすごく嫌う。「思い出」というのは、人の心にすごく強い印象を残しているものだから、それと
ケンカしても絶対に勝てない。とくに阪神というチームは、「俺が一番だ」と思っているタイプが多いから、絶対に反発をくらう。」
ところが、かたや、戦争を体験した世代からすれば、あのような悲惨な出来事は「無条件に」二度とあってはならない
ことであり、日本国憲法も国連の精神もそうした世界的惨事を人類が経験したことからうまれたものであり、いかなるこ とがあってもあのような歴史は二度と繰り返してはならないとの思いからうまれたものであることは、まったく疑いの余 地のない自明の理であることに変わりはないのですが、そこにやはり、歴然とした片方からは信じがたい断絶が存在し ています。
そこの断絶した部分に踏み込まずに、「反核」「反戦」「平和」「護憲」を同じように格調高く繰り返してきたこれまでの革
新勢力の問題を感じるとともに、これまでの憲法や安保、第9条などを論じた本がどれも教科書的な記述から一歩も出 ていない同じような本ばかりであったことにも、ようやく社会が気づきはじめたように見えます。
戦争なんか悪いに決まっているかも知れませんが、「どうして人を殺してはいけないのですか」という問いに答えること
が難しいのと同じように、歴史的惨事を体験していない世代が増えていくなかでは、いかなる自明の理も、ゼロから、自 分の感性で確認していくことが、かつてなく大切な作業になってきているのではないかと思います。
「人間の現在は過去によって支配される、と考えておられるんですか?」
と、速見卓はきいた。勇覚は首をふった。
「いいえ。反対です。人間の現在が過去をつくるんです。過去に支配されるんじゃない。勇気をもって過去を知
ろうとつとめ、そのことで過去から自立しようというのが私たちの立場です。人は知ることで自由になる。そうは 思いませんか。」
五木寛之 『風の王国』より
こうしたことを、もう少し別の角度から、斎藤ひとりさんが、次のようなことを言っています。
今から、すごいことをいいますからね。一生忘れないようなことを、いいますよ。いいですか?
「過去は変えられるけど、未来は変えられない」の。
あれ、逆じゃない?という人も多いと思います。ひとりさんは、こう説明します。
みんな、よくいうじゃない?
「済んだことは変えられないけど、これから先のことはあんたの自由になるよ」
って。
でも、そうならないんです。残念だけど、変えられるのは過去なんです。
もちろん、過去にあった出来事を、もう一度やり直したり、消したりっていうことはできないよ。でも、心で、過ぎたこと
を思うときは、それは思い出じゃない。
思い出って、どんなふうにでもかえられるの。
たとえば、自分は小さい頃に病気ばかりして、つらい思いをしていた、と。そういう人ががお医者さんになったりする
と、患者の気持ちがよくわかる、いいお医者さんになったりするんだよ。そのとき、
「自分は、病気だったんだ。でも、その経験があるから人に対して、病人に対してやさしくなれたんだ。病気してよかった
な」
どんなにつらい過去、嫌な思い出も、しあわせと思えば思えるんです。それをオセロゲームみたく、ポンポンと、しあわ
せに変えて行く。
「だから、しあわせなんだ」
って、変えるんです。
それで、
「だから、今、しあわせなんだ」
って、思えると、そこから先の未来は、全部しあわせなんです。
ところが、ずぅーっと不幸な人に、
「今日からしあわせになりなさい」
って、いっても、なれないんです。
どうしてかというと、不幸グセがついているから。
こうした見かたができると、過去の歴史が、いかに残虐な犯罪に血塗られたものであったとしても、決して隠すような
ものではなく、だからこそ今の平和があるのだと、積極的に話すようになるものだと思います。
それは同時に、決して史実を精神論で片付けてしまうといった言葉で非難されるようなものでもないと思います。
他方そうした意味で、自分以外の相手(隣人であったり、他国の人であったり、異世代の人間であったり)の気持ちを
理解するということがどこまで可能なのか、という問いかけも極めて重要な意味をもつものであると思います。
「コンパッション」とは他者の苦悩への想像力=「共感共苦」と表現されていますが、ここで取り上げられている歴史認
識に限らず、子供社会でも、地域や職場でも共通した問題であると思います。
この他人の気持ちをどこまで理解することができるかということは、同時に、自分がその人の立場であったらどうする
かという想像力を伴うものです。
ここに、共感があってこそ生まれる「責任」というものが見えてきます。
戦争中日本人が行なったことは、今の北朝鮮の姿をみて感じるのと同じように、現代の常識では信じがたい馬鹿げ
たことであったかもしれません。
しかし、その信じがたいことを、個々の人の心のなかにはいかなる良心が潜んでいたかもしれませんが、歴史の事実
としては避けることはできずに起こしてしまったのです。
そこに、過去の歴史と今の自分をつなぐ感性が欠落したまま、知識としてしか取り込めないままでいると、軍隊内で理
不尽と思いつつどうすることもできないでいた同じ構図を、現代の会社組織や地域社会で繰り返していることに気づか ず、いざ戦争という危機がほんとうにおとずれても、またどうすることも出来ない外部の現実として、個人にのしかかっ てくるのではないでしょうか。
二度にわたる世界大戦を体験した世界が、原爆やベトナム戦争を体験した国々が、その都度、戦争は二度と起こし
てはならないとの思いをもとに、新しい社会像を誓ったり、反戦の意志を表明できなかった過去の自分や自国の歴史を 多くのひとびとが反省していますが、それにもかかわらず、アメリカの国連決議も経ないイラク攻撃を止めることもでき ず、まして、自国の政府のイラク攻撃無条件支持の姿勢を、私たちは止めることもできませんでした。
こうした現実の前では、わたしたちの国の戦争体験というものが、なんら過去の特殊な条件下にうまれたものではな
く、いまもそのまま引きずっている同時代の問題でることをもっと深く考えなければならないものであると思います。
さらには、もう過ぎ去った遠い昔のことを今頃そんなに騒ぎたてるのは、相手がナショナリズムの強い中国や韓国だ
からなのではないかという人もいます。
しかし、自分自身の国のことももう少し見てみましょう。
平成8年11月、山口県萩市の野村興児市長が福島県会津若松市を訪れ、山内日出夫市長と懇談したことがニュー
スになったが、これは、戊辰戦争で長州と会津が戦った因縁をそろそろ清算しようという訪問だった。野村市長の訪問 は「私人としての訪問」ということだったが、山内市長との懇談で一致したのは「いますぐの和解は無理」という一点のみ だった。両市長は、とうとう握手をしなかったそうである。
翌年の平成9年6月、今度は会津若松市の山内市長が萩市を訪れた。市長同士の懇談では「市民レベルの交流を
深める」ということで一致、両者の関係は一歩前進した。記者会見で山内市長は「すぐさまの『和解』ではなく、一つひと つ交流を積み重ねていきたい」と語り、野村市長は「会津人の心の傷みをしっかり踏まえていきたい」と語った。同じ日 本人同士でも、百三十年前の争いが解決していないのである。
お互いの気持ち、被害者の気持ちを理解することは、決して不可能なことではありませんが、とても時間のかかること
であるとも、よく心しておかなければなりません。
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