第一テーマ館 田舎で「美しく」暮らす
この分野の研究は、尾崎喜左雄博士が群馬の神社に関して『上野国の信仰と文化』(尾崎先生著書刊行会)のな
かで詳細に考察されていますが、内容を簡潔にどうまとめたらよいか苦慮していたところ、修験道に関する研究の分野 (宮田 登・宮本袈裟雄 編『山岳宗教史研究叢書G 日光山と関東の修験道』)から井田安雄氏が簡潔に尾崎 博士の研究をふまえてまとめられていたので、ここではそれにもとづいて紹介させていただきます。
なお、ここで紹介させていただく本は、入手難なものが多いので、引用は惜しまずに紹介させていただきます。
ところで、『万葉集』に詠まれている「イカホ」がどの地域をあらわしているのかという点については、早くから論議され
たが、一般的には、現在の伊香保、榛名山をふくめた地域を、古代においては「イカホ」とよんでいたものとされえい る。その論拠は、一つには、『万葉集』の中に「伊香保の沼」とか、「伊香保嶺」という表現がみられること、その反面に、 九世紀までの文献に、「榛名」という地名が出ていないことなどによる。
このことについては、江戸時代の本県地誌類でもとりあげている。たとえば、『上野国誌』には、「按に伊香保は山の名なり、今の伊香保、榛名、
水沢、蓑輪の諸山、都て伊香保なり」とあり、『上野名跡考』には、「式、万葉の歌等によりて見れば、今の榛名山は都て上古の伊香保山といひし なるべし、榛名より下す風をいかほ風とし、今の沼をいかほ沼と云にても知べし」とある。
では、いつ頃から今の榛名山という呼び方に変わってきたのでしょうか。
尾崎喜左雄博士の説にもとづいて以下のように続けています。
榛名という地名が、(現存の)文献の上にあらわれてくるのは、『延喜式』(十世紀はじめ編さん)以降である。しかも、ここで注意したいのは、『延
喜式』の中に、榛名神社とともに、伊賀保神社(伊香保神社)の名が見えていることである。もし、万葉の時代に、榛名という地名があったのなら、 「伊香保嶺」という表現ほかに、「榛名」があってもよさそうなものである。仮りに、『万葉集』の成立を八世紀の終わりとするなら、すくなくとも、その ころまでは、榛名という地名はなかったか、あるいは、一般的な呼称ではなかったということができるのではなかろうか。
「イカホ」という地名が、今の狭い地域に限定されるようになったのはどのようないきさつがあ
るのだろうか。
『延喜式』には、上野国関係の神名として、十二社が登載され(いわゆる式内社)、そのうち、三社が大社となっている。上野国の大社として『延
喜式』に登載されている三社とは、甘楽郡の貫前神社、群馬郡の伊香保神社、勢多郡の赤城神社である。この三社が、古代上野における三大社 として考えられていたのである。これに対して、榛名神社は小社として登載されている。尾崎喜左雄博士の研究によると、榛名神社については、 「六国史には一回もその名が出ていない、『延喜式神名帳』にはじめて名を連ねている」ということである。
ここに榛名神社と伊香保神社の関係が問題となってくる。
両社とも、旧群馬郡に鎮座しており、伊香保神社については、承和二年(835)の『続日本紀』の記事をはじめとして、『六国史』の中にも、その
記録が、しばしば出てくるが、榛名神社については、前述のように、中央の記録には、『延喜式』に出てくるのが最初である。
しかし、榛名神社のことが、中央に知られるようになったことについては、それ以前から、地方の名社であったことが考えられる。しかも、同一郡
内に、有力な神社が、二つあることについてはその崇敬者と、両社の格の差について注意してみる必要があろう。
伊香保神社と有馬氏
伊香保神社を崇敬していた豪族については、尾崎博士は、旧群馬郡東部を支配した有馬氏(阿利真公)であろうとさ
れ、伊香保神社の鎮座地については、古墳の分布、『神道集』の「上野国第三宮伊香保大明神事」、『上野国神名帳』 記載の「小伊賀保明神」や「伊賀保別大明神」などの分布や、神領との関連などから、もとの鎮座地は、北群馬郡吉岡 村大久保の三宮神社の鎮座地であり、現在の伊香保神社は、同地から遷座したものであろうとする。こうしたことの裏 付けとして、伊香保神社が、平安後期にいたると、記録の上でも大きく扱われなくなり、中世において早くその勢力を失 ったのは、伊香保神社を崇敬した有馬氏の勢力の衰退によるものであろうとされている。
このあたりの事情を、近藤義雄『上州の神と仏』(煥乎堂 1996)は、もう少し詳しく書いています。
伊香保の温泉街中央の石段を登りつめたところに、上野国三之宮伊香保神社がある。これが伊香保神社の本宮のように考えられているが、古
くは別のところにあったのではなかろうか。
前号の赤城神社のなかで、前橋市二之宮町に所在する赤城神社が、二之宮の地名が示すように里宮の中心であり、三夜沢赤城より早く、古く
はそこが本宮であったと記した。伊香保の場合も同様で、三之宮の地名のあるところの神社が古代の中心になっていたと考えられる。
山麓で三之宮の地名を探すと、北群馬郡吉岡町大久保にあり、そこには三宮神社がある。現在祭神は日子穂々出見命・少彦名命・豊玉毘売命
の三神であり、伊香保神社の祭神と一致するのは少彦名命だけである。しかし、このような祭神に定められたのは明治以降のことで、古くみても 近世国学の発展以前にはなかったことであろう。三宮神社の本殿奥深くに御神体として安置されているのは、木彫の十一面観音の立像である。 明治初期の廃仏毀釈のときには、開扉すると目が潰れるといって保護されてきたのだという。神仏習合時代は三宮神社の本地は十一面観音だっ たのである。
本地仏が十一面観音であることは、南北朝時代に成立した『神道集』の「上野国第三宮伊香保大明神事」のなかに、伊香保神社は「里へ下給
テ三宮渋河保ニ立脚ス」とあり、同書の「上野国九カ所大明神事」のなかにはつぎのように記載されている。
三宮ハ伊香保ノ大明神ト申、湯前ト祟ル時ハ本地薬師如来也、・・・・・里ニ下ハ本地十一面観音也、亦大光普照ノ観音ト申
とあり、温泉地では薬師であるが、山麓地方では十一面観音となり普く庶民を照し救う仏であると記している。渋河保は、現在の渋川市を中心とし
た隣接吉岡町などの一部も含まれた地方である。吉岡町の三宮神社は、伊香保神社とは記録にないが、三宮の地名や神社の本地仏十一面観 音のあることなど、『神道集』記載の内容に合致している。上野国の三宮は、この吉岡町の神社が古くは本社であったのであろう。
伊香保神社 温泉街から続く階段
では、温泉地にある伊香保神社はどのような関係になるのであろうか。結論的にいうなら、温泉湧出以後に近くの伊
香保神を移し勧進したのであり、温泉の効能と関係して薬師如来を本地仏とするようになったのである。
榛名神社
次に、榛名神社について概観してみよう。
榛名神社の現在位置は、群馬郡榛名町榛名山で、榛名湖の南、榛名山中に鎮座している。ところが、この榛名神社の地形や、歴史的背景か
ら、榛名神社が、最初からここに鎮座していたのではないとするのが尾崎喜左雄博士である。尾崎博士は、その論拠として、「有力な豪族の住ん でいた様子がみられない。古墳もみられない」という二点をあげている。しかも、こうした条件の悪いところに、何故、『延喜式』に収載されている古 社が存在していたのだろうか。
このことについては、江戸時代の『地誌』においても関心を持っていたようで、榛名神社の遷座を指摘している。(たとえば、『上野名跡志』や『上野
志』のなかにも記述がある。引用略))
両書とも編さんの時期は江戸時代の末であるが、当時から、榛名神社の遷座説が民間に流布されていたことがわかる。群馬郡箕郷町松之沢の
鎮守様は榛名若御子神社であるが、土地の人たちは、ここの神社の祭神と、榛名神社の祭典のときに松之沢の氏子総代が、行かなければ、榛 名神社の御戸は開かなかったという。これは同地と榛名神社のむすびつきを示す伝承といえよう。
自然崇拝・神道・密教(仏教)・修験道の集合体としての神社
榛名神社の遷座の問題については、尾崎博士がくわしく論じているので、その説を要約してみることにしよう。尾崎博士は、まず、現在の榛名神
社の鎮座地が、深山幽谷にあたり、奇岩の存在する地であって、密教者や修験者の好むところであるとしている。そのために、後述のような中世 資料の記事から遡及して、修験道あるいは密教との関連を想定されている。元来は神社として信仰されていたが、九世紀ごろに至って、密教によ って変化したものであるというのである。
神社として信仰されていた時代には、当然その維持者としての豪族の存在が考えられるのであるが、尾崎博士はこのことについて、次のように
論究している。
まず、『万葉集』の中の「傍(そい)の榛原」を、榛名の地名のもとと考え、地形から判断して、榛名の東麓に位置する相馬ヶ原を「傍の榛原」に此
定している。さらに相馬嶽を信仰対象とする黒髪山神社に注目して、その名称は、雷を意味する「くらおかみ」から起こったもので、雷雲の起こる相 馬嶽を神としてまつたものであろうという。雷はとくに稲作にとっては、水をもたらすために、雷電という畏怖すべき自然現象とともに、水源に対する 信仰対象とされてきたと考えられる。つまり、榛名信仰のもとの姿を、雷を通して自然崇拝に求められたのである。
雨乞講といっても、これは、雨乞いの時に随時榛名神社に参拝するもので、講というほどのものではない。その多くは、代参講社のあるむらからの
ものであるが、代参講のないむらからの登拝もあるという。榛名と雨乞いの関係については、鎌倉時代前期の、天台宗の僧侶で古典学者であった 仙覚の『万葉集注釈』(1269年完成)に、万葉集の
伊香保ろに天雲いつぎかぬまづく人とおたはふいざ寝しめとら
の注釈として、「いかほの沼は請雨之使たつところ也といへり」と述べている。また、『頼印大僧正正行状絵詞』の中に、頼印自身が「湖水ニ参詣
ス(中略)シバラク湖辺ニ憩テ、法施ヲイタシ、テヅカラ笹舟ヲ製シテ、舎利一粒ヲ案ジテ、湖神ニ献ズ」とある。
このことは、中世においてすでに、榛名湖に対する雨乞いの信仰や、水神の信仰が行われていたことをあらわしている。榛名湖は、古くは「権現御
手洗沼」とか、「満行権現みたらし」といわれていたように、雨乞いの場所として有名であった。
『伊香保記』には、榛名神社について、
と記している。また『伊香保紀行』によると。榛名湖について、
とあって、江戸時代のはじめに、この雨乞いの場所となったことを物語っている。雨乞いについては、現在でもその信仰がみられ、むらの代表者が
竹筒などをもって、榛名の御神泉まで行って種水としてもらってきて、それをふやしてむら内の田畑にまくという方式をとっている。雨乞いの使者が 途中に立止まると、その場に雨が降ってしまうということもいい伝えられていて、リレー式に種水をはこぶという方法がとられている。高崎市木部町 は、榛名湖に入水した木部姫の故地ということで、ここから榛名へ雨乞いに行けば、かならず雨が降るといわれ、他所から頼まれて、雨乞いに行く こともあたっという。木部姫−雷−榛名への雨乞いというつながりがあったことがわかる。なお、雨乞いについて、他の社寺等が行うことを禁止して いる。明和八年(1771)の資料に、
一、当山於御手洗他所之寺院井社家等雨請其他致祈願候事堅停止の事。
とある。
車持氏のいわれと群馬
車持氏の場合は、さきに上げた越(こし)、および上野国群馬(くるま)郡、筑紫、摂津の四地域に関わりが見られるが、車持とはきわめて特異な
氏名であり、結論的に記せば、その名は居地にもとづく名というよりも職掌にもとづく名と考えられる。つまり天皇(大王)に近侍してその日常や儀 礼に供奉した主殿の任務分掌のひとつである興連の供御、すなわち輿(もちこし)をかかげ、こしぐるまをひくことにもとづく負名の氏が車持氏の本 来の姿であった可能性が高い。したがって、車持氏はかなり古くから王権と深く結びついた氏で、その性格は物部氏や大伴氏に近かったと考えら れる。
群馬は現在県名ともなり「ぐんま」と読まれているが、『和名類聚抄』は「久留末(くるま)」と訓んでおり、藤原宮木簡でも、「車評(くるまおこほ
り)」である。
そして、つい最近まで群馬郡には久留馬村(榛名町東部)・車郷村(くるまさとむら)(箕郷町西部)が存在していた。「クルマ」が本来の名だった
のである。
その群馬郡内あるいは上野国内に車持郷や車持氏の存在は確認できないが、平安時代中期成立の『上野国神名帳』群馬西郡条には従五位
車持明神、正五位車持若御子明神が見えており、群馬西部にあたる榛名山山麓に車持氏が一大勢力を築いていたことは否定できないであろう。
そこで注目されるのは群馬郡群馬町に所在する巨大な豪族居城、三ツ寺T遺跡とその奧津城、保渡田三古墳である。発掘調査の所見などによ
れば、三ツ寺T遺跡は五世紀第4四半期ごろから使われ始めたと考えられており、保渡田三古墳の築造は西暦500年前後からといわれている。
あるいは、5世紀代に王権中枢で活躍していたと見られるから、三ツ寺T遺跡が造られたころ、その勢力の中心を「畿内」から東国に移し、東国諸
勢力との関係を深めながら六朝臣の基礎を築いていった可能性が高い。
熊倉浩靖「四、上毛野氏と東国六腹の朝臣」『古代を考える 東国と大和王権』吉川弘文館より
榛名山と赤城山の戦い
もうひとつ、榛名山を語る場合は、赤城山との対比の歴史を欠かすことができません。
喧嘩っ早い上州の原点なのかもしれませんが、赤城山は、榛名山と競ったり、男体山と争ったり、争いのネタにつき
ないのも面白い。
出典がみつからないので、おぼろな記憶での話ですが、
むかしむかし、上州にいた大きな赤鬼と青鬼が、ふたりで夜が明けるまでどちらが大きな山をつくれるか競争しようと
いうことになりました。
赤鬼も青鬼も夜明け近くまで、どんどん土を運びつづけ、どちらも負けない大きな山をつくりましたが、青鬼のほうが
最後の土を運ぶ途中で夜が明けてしまい、そのひと山分だけ、赤鬼に負けてしまいました。
その運びそこねた最後の山が、榛名山の東側に独立したひと山として残っている山で「モッコ山」、今の名を水沢山だ
ということです。
赤城山に関することは、前橋方面に詳しく研究しているひとがたくさんいますので、このテーマ館ではパスさせていた
だきますが、マタギの関連で、日光派文書としての巻物の由来についてマタギに学ぶ自然生活、どう考えたって足尾は 群馬だろうの乱の中の歴史考証スケッチで勝道上人の修験道を開いた歴史などのかかわりで、本テーマ館でもふれて います。
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