す。 事故現場特定が遅れた理由については、米軍、航空自衛隊などが計測した墜落地点に大きな誤差はなかったにもかかわらず、防衛庁の発表 後すべて長野県側に流れてしまう経緯を詳細に明かしています。また、事故直後、真っ先に現場上空に到達していた米軍ヘリは、なぜ救助を中 止したのか、米空軍アントヌッチ中尉の証言を掲載しています。 事故調査委員会がはじめから圧力隔壁説に固執し続け結論を急いだわけなどは、そのまま今日に至るまで重大な問題を引きずる最大の原因と 思われます。 特別付録として適度に雑音処理加工されたJL123ホボイスレコーダーとCG映像DVDがついてます。 「率直にいって、DVDを見ているとつらくなってくるかもしれない。しかし、最後まで見てほしい。そして123便事故について考えていただきたい」 事故から20年たって、再三にわたり事故を引き起こし、異例の国土交通省の介入をまねいている日航の姿や信楽鉄道の反省も虚しく引き起こし てしまったJR福知山線での大惨事など、御巣鷹の経験はまだまだ語り続けなければならないことを痛感させられます。 本来、事故調は123便事故を通じて、世界に発信されるべき「安全のための教訓」を導き出していなければならなかった。 も断定し難いという二つのポイントを、17年経てようやく、内部告発などの協力を得て信頼されうる資料と情報で整理された待望の本です。 墜落位置の特定は、これまでの例からは信じられないほど素早く、運輸省からの出動要請もまだない段階の19時1分に、百里基地から自衛のF -4ファントム2機が発進していたり、米軍のC130輸送機の確認だけでなく、米軍の救出ヘリがいったん現場上空までたどり着いているにも関わら ず日本側の救出があるからと追い返したあげく、その後、長野県側に墜落などの情報がとびかったりして、結局翌日の日の出後(日の出時降下も 可能であったはず)の救出作業になってしまったことなど、豊富な資料をもとに疑問点が整理されています。 また、4名の生存者が発見されてから現場にヘリが到着するまで、ヘリポート付近で2時間近くも待たされた原因が、運輸大臣と消防長官の移 動に使われた可能性が大きいなどの注目すべき指摘もされています。 そして、これまでも様々な方面から指摘されていたことですが、事故原因が圧力隔壁の破損によるとの事故調の報告が、様々な証言や報告か ら機内の急減圧が明らかになかったことなどから、考えられないことであるにもかかわらず、圧力隔壁原因の結論を先に出してツジツマ合わせに 終始した調査報告に値しないものともいえることが、詳細に立証されています。 今さらながらにこうした事実を突きつけられると、17年経とうが、あの事故はまだ終わっていないことを痛感させられます。 著者は、日航機事故から20年の8月12日放送のドラマ「ボイスレコーダー〜残された声の記録〜ジャンボ機墜落20年目の真実」(TBS系)に実 名キャラクターで登場(再現ドラマの部分では、竹中直人が演じた)今や多くの支持者を持つ元日航パイロットで航空機事故調査のエキスパート (以上、本書帯より) 過去のいかなる惨劇も、きちんとした調査と情報の公開がその後の安全への大きな教訓を生み出す貴重な財産になりうるにもかかわらず、それ を徹底していない日本の現実を、123便事故だけでなく、世界の航空機事故の事例から訴えています。 組まなかったのか。日航123便事故は、激突に近い墜落の場合ですら、生存者が多数ありうることを証明しているにもかかわらず、航空機は未だ に、時速60〜80km走行の自動車の安全設計にも至らない。 事故調の初代の八田委員長は、高い安全性を誇ってきたベストセラー機であるジャンボ機に、ジェット旅客機を製造したこともない日本が、その 設計変更を求めるようなことは、当然困難が予想されたが、八田委員長は病床にありながらも安全提言を行うことを決意していた。米国に遠慮す るには520人という犠牲者はあまりに大きく、また後任の委員長に対して、負担をかけるよりは、自分の代でやり終えてしまいたかったという。 それがどうして結論先行、未完成の事故調査報告書に終わってしまったのか。 当時、議院運輸委員会で「航空事故絶滅に関する決議」も決議されており、事故調予算獲得は有利かのように見えたが、大蔵省の壁は予想以 上に厚く、当初の事故調予算はYS−11のエンジン2基の交換費程度になってしまった。その後、85年度政府予備費として、2億2400万円、86 年度予算として4500万円が調査費として追加されることになるが、決して十分なものではなかった。相模湾の海底探索などに対する批判だけで なく、山積する研究、調査の内容に「予算が足りなかった」という言い訳はしたくない武田委員長のプライドもあったようであるが、やはり、国の安 全システムの問題としてふり返るべき資料を本書は与えてくれています。 「〈略)事故調は、ともすれば製造国に気兼ねし、運輸省や捜査当局との関係で制約を受けて、自己規制まで行う弱腰の機関だった。ところが、そ うした従来の体質に引きずられながらも、事故調は日航ジャンボ機事故の677日に及ぶ調査を通して、様々な側面で自ら枠を突き破っていった。」 (あとがきより) 今日まで課題を残す「未完の事故調」の当時の内情を詳細にまとめあげた1冊。 雑誌掲載の関連文(米田憲司著『御巣鷹の謎を追う』より) 藤田日出男「『隔壁破戒』はなかった LAL123便御巣鷹山15年目の真実」(新潮社『新潮45』2000年8月号) 青木謙知「ドキュメント その時、自衛隊は 自衛隊事故当夜の動き」(航空ジャーナル『航空ジャーナル』1985年11月号) 神浦元彰「事故直後、航空自衛隊が特定した墜落地点を誰が葬ったか」(集英社『プレイボーイ』1985年11月26日号〜86年1月14日号) 西沢優「『日航機墜落事件』のさらなる公開質問状」潮書房『丸』1997年8月号) 藤原源吉「航空機事故と信頼性管理方式の反省点」(信頼性学会『信頼性』2004年4月号 藤原源吉「日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故−再び発生した圧力隔壁疲労破壊の証明すること」(技術と人間『技術と人間』1999年1・2月合併 号〜2000年12月号) 落合由美「高度八千メートル『生きていたから』語れる真実」〈新潮社『新潮45』1986年1月号) 松永貞明・増岡鼎「日航事故・自衛隊批判に応える」(文藝春秋『文藝春秋』1985年11月号) 泰郁彦・鍛冶壮一・村井澄夫「JAL機墜落『危機管理』の盲点」文藝春秋『諸君!』1985年10月号) かとの旨のことを話していましたが、そうした観点での警告を早くからならし続けていた著者。確率ではいかに低い差にすぎないとしても、事故は 必ず起きてしまう環境と、極力起きないように整えられる環境の差が歴然と存在している。 日航機事故のあと、運輸省は日本航空をふくむ各航空会社にボーイング747の垂直尾翼の隔壁部分の一斉点検を指示したあとの中間報告に よると、点検が終わった41機のうち23機からボルトの折損など31ヵ所の不具合が見つかった。そのなかには、ボルトの折れたり切れたりしていた ケースが全部で10機から発見された。 123便の事故を特殊例にさせられない日航、ボーイング社の体質、さらには航空業界全体の問題を見事にえがき切っています。 本書の冒頭は、全日空ボーイング727型機の羽田沖墜落事故で、事故調査団の一員として原因の究明にあたり、結論が先にあってそれに辻 褄を合わせていく調査のあり方に疑問をもち委員を辞任した山名正夫さんの話からはじまっている。 にもかかわらず、この大事故の報道責任を負った新聞社の記録の本としてみると、事件に対峙している記者の視点や姿勢を窺わせるものが物 足りない。あとがきの、「『新聞記者も同じ血の通った、ふつうの人間なんだな』と感じてもらえたとすれば」の言葉は、なぜか空疎にすら感じてしま う。客観報道の名のもとに、事実に引きずられていくばかりの、最近の報道の姿、記者の質を感じてしまう。なんて見てしまうのは、「期待を裏切る 朝日新聞」などという穿った見方をついしてしまう、私の偏見なのかもしれない。 そもそも事故現場に取材に入った記者たちのメモをもとにまとめられた取材記録なのだから、こんな勝手な見かたで本書をみるのは失礼千万な ことで、本書の価値自体計り知れないものをもっていることに疑いはないのですが、客観的事実を伝えるのが新聞記者の仕事かと、最近疑問に持 ち続けているのでどうしてもひっかかってしまいます。 もう少し立ち入ったことにそれますが、朝日新聞社会部は、1985年8月12日の事故の翌日、朝刊に膨大な乗客名簿を載せ、その一人ひとりの欄 に、調べられる限りの旅行目的を書きこんで驚かせた。 取材した記者たちは一生懸命収集した情報なのでしょうが、これは野田正彰氏が以前から指摘しているように遺族の心をどれだけ踏みにじるも のであったか、当時考えることのできなかった編集部の姿に、記者がなすべきことはなにか、こと日航機事故に関しては毎日新聞と対比してみる と朝日新聞の記者の姿勢にとても疑問を感じました。 国内最大の航空機事故の詳細を調査。その全体像と現代の巨大システムの本質に迫る。講談社ノンフィクション賞受賞 事故原因とされる圧力隔壁説に対して、隔壁破損による機内の急激な減圧は起きていない立証や、ドーンという音の事故発生以前から、ベルト 着用サインが消えていない緊張状態が機内にあった、など注目すべき指摘がでている。 また、本書は自衛隊がからんだ様々な疑惑説を呼ぶ総元になった本でもあります。
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