第一テーマ館 根源から「お金」を問う エンデの遺言
貨幣文明のパラダイムを問う
パパラギはお金無しでは生きていけない。
パパラギはひまがない。
ヨーロッパ人らしいヨーロッパ人ほど、たくさんのものを使う。だからパパラギの手は休むことなく物を作る。それゆ
え、パパラギの顔はたいてい、疲れていて悲しそうだ。だからあの大いなる心の造ったものを見たり、村の広場で遊ん だり、喜びの歌を作って歌ったり、あるいは安息日に日の光の中で踊ったり、私たちすべての人間がそう定められてい るように、さまざまにからだを動かして楽しもうとするものは、ほとんどいない。
彼らは物を作らねばならぬ。彼らは物を見張らねばならぬ。物は彼らにつきまとい、小さな砂アリのように彼らの肌を
はい回る。彼らは物を手に入れるために、冷静な心であらゆる罪を犯す。男の名誉のためでも、力比べのためでもな く、ただただ物のためにのみ、たがいに攻撃しあう。
それからパパラギは、私たちのことについてこうもいっている。
「君たちは貧しくて不幸せだ。君たちには、多くの援助と同情が必要だ。君たちは何も持っていないではないか。」
もう20年以上のロングセラーになる「パパラギ ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」(立風書
房)からの抜粋です。
「パパラギ」の初版が世に出たのは1920年のことだといいます。
ここで取り上げているミヒャエル・エンデやシルビオ・ゲゼルの理論を待つまでもなく、燦燦とふりそそぐ太陽のエネル
ギーを全身にうけて、自ら溢れる生命のエネルギーで生きているツイアビのような「人間」からは、なにも資本主義に限 らず、貨幣文明そのものは、まったく無意味な存在にしか見えないのはあたりまえのことだったのでしょう。
「お金」でしかモノをはかれない現代の文明は、確かに私たち自身も、どこかこれはおかしいのではと誰しも思ってい
ました。しかし、それにかわる世界観は誰もずっとイメージすることができませんでした。また実際にあっても、根拠の無 いユートピア的世界観としてしか相手にされていませんでした。
ところが、やはり世紀の変わり目の力なのか、これまでは考えることのできなかった新しいパラダイムが、またはこれ
まで見向きもされなかった考え方が、次々と目の前に現れだしてきたのです。
そのひとつが、ここで紹介している地域通貨(エコマネー)の世界的な広がりですが、その他に、エコマネーの広がり
を勢いづかせている背景として、グローバル化の名のもとに世界が「剥きだしの資本主義」の時代に突入したことによ る、自由競争の副産物としてはあまりに大きすぎる破壊の数々をまのあたりに見せられてきたことがあります。
日本からは見えにくいのですが、テロ集団の印象ばかり拡大してしまいましたが、イスラム原理主義(利子を取らない
経済)が世界的にものすごい勢いで拡大しているのもそうした背景によるものといえるかもしれません。
またもうひとつ、電子マネーなどの技術進歩で、お金というものが、実態からかけ離れた「信用」だけの機能として、こ
れまでは考えられないようなスピードで進化、拡大し続けているということも見逃せません。この技術進歩も両刃の剣 で、地域通貨の信用決済の技術的基盤を育てている側面もあります。
このように世の中がパラダイムの転換をはかろうとするときは、常に現実は、私たちが頭で考えるよりもはるかに早
いスピードで変化を遂げていくものです。
福沢諭吉の『文明論之概略』以来、西欧文明を目標とする日本のインテリの「進歩」志向は、日本の学界、言論界の主流派であり続けてきた。も
ちろん、これは、ひとり日本のみならず、世界的にも、いまだに、支配的なパラダイムである。いわゆるグローバリゼーション現象の一側面は、社会 主義に取って代わったアメリカ型資本主義が、一つの普遍的価値として、世界に「進歩」をもたらすだろうという信念なのである。ここでは、相も変 わらず、経済が主役であり、物質的厚生の増大を全世界にもたらすということが「進歩」の究極的目的とされている。
しかし、いまだ少数派ではあるとはいえ、あるいは、明確な思想を体系だって持っていないにせよ、経済至上主義、あるいは資本主義・原理主義
に対するある種の異議申し立てが、アジアからも、また欧米からも、次第に声高に聞こえてくるようになってきたのである。理由は極めて明快であ る。現実に、世界各地で、問題が累積・構造化し、従来までの「進歩主義」型資本主義では、その解決の見通しが立ちそうにないからである。
まるで、次に紹介する内橋克人氏の文章かと思わされんばかりの内容である。
元大蔵官僚と見てしまう側の偏見の方があまりに強すぎるのか、榊原氏の視点は、常に日本国家の教師がごとく、時代の要所を的確に総括し
てくれている。
さらに、本書ではマスコミに登場する多くの「改革」派の欺瞞を厳しく痛快に暴く。
筆者がいわゆる「改革」派の議論をあまり好まないのは、彼らの議論が表面は勇ましく、華々しいのだが、そうも、深くものを考えての上での主
張だとはどうしても思えないからである。それは、ちょうど、明治維新のとき、朱子学的ファンダメンタリズムから尊皇攘夷を唱え、実務的開国派を 次々と暗殺していった殺し屋たちの発想とも似ている。吉田松陰にしても橋本左内にしても、結局のところ朱子学的ファンダメンタリズムから抜け 切れなかったという部分を持っているたが、現代日本の多くのエコノミスト、評論家たちも、新古典派経済学というファンダメンタリズムの枠からどう しても出ることができないようなのだ。
われわれにとって、今、必要なことは特定の原理に軽々しく帰依することではなく、原理・原則にかかわる哲学的問題について、弾力的かつ柔軟
に深く内省することではないだろうか。二十世紀、特にその後半の学問はあまりにも専門的、分析的になりすぎ、学問の本来、基礎となるべき、哲 学的、歴史的視点を欠いてしまった。社会科学、特に経済学において、その傾向が顕著なのだが、われわれは、そろそろ、経済分析にもう一度、 哲学的考察と歴史的視野を導入していかなくてはならないだろう。
では、いったいどのような次の社会が可能なのでしょうか。
榊原氏のような主張がテレビなどでだされると、自由主義市場経済を否定してなにができる、日米同盟を守らないで
日本が生きていけるか、といった反論が必ずでてきます。
それに対して、内橋克人氏は昔から、きっぱりとそれは可能であるばかりか、早急にその道を日本は選択する必要
があると主張し続けています。
デンマークは、20年前までは日本と同じように、中東の石油に大きく依存し、第一次石油ショック当時のエネルギー自給率はたったの1.5%で
した。しかし、風力、太陽光・熱発電、バイオマス発電(生物資源由来の発電)など再生可能なエネルギーへの転換を図りました。政府は国民的 合意をもとに、石油と石油製品に対して、「国際相場よりも高い価格にする」、つまり高い価格でしか買えないようにするという国際的二重価格制を 基本政策として採用し、また環境税も新設したのです。
それと合わせて新エネルギー産業をつくるために、市民が共同で出資する「市民共同発電方式」を重視しました。同じ風力発電でも、一般企業よ
りも市民発電のほうを有利な条件、高価格で買い取ることにしたのです。企業電力の買い取りは消費者の支払う電力料金の70%ですが、市民共 同発電による場合は85%で買い取る。さらに税制優遇措置も与える、など。
こうしてデンマークのエネルギー自給率はいま120%近くで、20%は輸出に回しています。ちなみに食料j自給率は300%です。
(『もうひとつの日本は可能だ』181ページより)
このような例に学ぶことを、日本が出来ない理由があるでしょか。
こうした事例が、遠く目指す理想としてではなく、今や、世界的に急務な課題になっているといえます。
内橋氏はこうした観点で、ふたりのフランス人女性に注目しています。ひとりは『なぜ世界の半分が飢えるのか』(朝
日選書)e-hon注文カートと世界の矛盾に対して真正面から立ち向かっているスーザン・ジョージです。
もうひとりは、「人間はもはや搾取の対象でさえなくなった、いまや人間は排除の対象になった」と指摘するヴィヴィア
ンヌ・フォレステルです。
「職なくば人間の自立はなく尊厳もない。市場に任せさえすれば全てはうまくいくと説く『市場原理至上主義』が猛威をふるう世紀末社会は人間を
排除の対象となしはじめた。経済の主人公は人間であってその逆ではない。この当り前の真理が目の前で蹂躙されるのを傍観する知識人の頭上 にヴィヴィアンヌさんは憤怒の鉄槌を振り降ろす。いまこそ経済の正体を見抜く英知をもたねば私たちは悲惨な高度失業の21世紀を迎えるほかに ないだろう」
(『もうひとつの日本は可能だ』 27ページより)
さきに取り上げた地域通過などは、ほんの小さな試みの例ですが、私たちは早急に思い切った未来への決断を下す
勇気をもたなけれなならない時期に、追い込まれてしまっているともいえます。
まず、市場原理至上主義以外にも、さまざまな経済観が存在し、世界史上から見ても、決して市場原理主義が普遍
的システムではないことを学ばなければならないと思います。
文 ・ 星野 上
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