第二テーマ館 日航123便御巣鷹山墜落事故
それは、まったく前例のない大量の遺体確認作業であった。 遺体はどれも泥と油、血液などにまみれている。五体揃った遺体はほとんどない。 しかも、遺体には真夏の高温のもと、時間がたつと15ミリから20ミリにも成長した蛆がびっしりとたかってうごめいている。 バラバラに運ばれてくる遺体の部分部分は、完全に身元を確認するまでは安易に遺族に引き渡すことができない。 一部を間違えると、全体のパズルが壊れるがごとく、その後の遺体確認作業が一層困難なものになってしまうからである。 遺族は服の切れ端やホクロをみて、これは父の遺体に間違いない、これはうちの子の遺体に間違いないと叫ぶが、指紋採取、血液型判定、歯型 による鑑定などが済まないとすぐに引き渡すことができない。 遺族に同情した若い警察官が医師に向かって、「何でわからないんですかあー」と泣きだす場面さえあった。 看護婦たちは、部分部分と化した遺体を抱きかかえ、ビニールに綿をつめて欠落した部分を補い、爪切り、口紅、ファンデーションまで用意して遺 体を整える。 「最後のお別れですから、元気な時よりも、もっときちんとしてやってお別れしましょう」 というのが彼女たちの考えであった。 今日、医療や警察などの現場では不祥事が頻発しあまり良い印象がないが、ここに本来の職務に死闘さながらの奮闘をささげた医師、看護婦、 警官たちの姿があります。 渋川市からも身元確認、検死作業に向かった医師がいました。市内で歯科医院を開業している星野茂樹医師です。 星野医師は歯科医師会渋川支部の石北裕医師に、「ゆたかちゃん、あした僕を藤岡へ連れてってくれよ」と頼み込んだ。星野医師は当時、肝硬 変が進み、入退院を繰り返している身であった。 時々朦朧としているような様子であったが、夜中までの作業をがんばりとうした。 星野歯科医師は、年が明けて間もなく、昭和61年の2月7日、肝臓がんで死亡した。 おそらく、群馬県の書店のノンフィクションコーナーでは、最も長く売れ続けてている本といえるのではないでしょうか。 (関連ページ「他人の死」を語ることの難しさ) 上野村の慰霊塔の石碑に刻まれているのは、520名全員の名前とばかり思っていたが、「名前が刻まれている人は、四八〇人(うち外国人二二 人)とのことだった。 名を刻むのを拒否した理由はさまざまだと聞く。」 「喜びは数人寄れば数倍になるかもせれないけど、悲しみは決して半減されないんです」 ここで本書であらためてふれられている『墜落遺体』で紹介された、市民体育館のそばの『風の子』というラーメン屋さんの後日談のことをどうし ても記しておきたい。 そのラーメン屋さんは事故当時、「異臭を体中に浸みこませた検死、確認の班員で、小さな店は昼時も夕食時も常に満員になる。飲食店にとって は致命的ともいえる、すごい臭気のはずだ。断られても当然である。それなのに店の主人は『ご苦労様です』とまで言ってくれる。」(『墜落遺体』) いみじくも同じサービス業の端くれとして、自分が同じ立場だったらできるだろうかとよく思い出す話です。 ところが、事故から15年後、著者がこの店を訪れ「相変わらず繁盛してますねえ」と声をかけ、昔の身分を名乗ってから「いつも満員御礼で、不景 気なんて関係ないでしょう」と言うと、 「いいえ。お客さんが戻ってこられたのは、ついこのごろでして・・・・」と、意外な返事が返ってくる。 事故後、3、4年は客足がめっきり減ったとのこと。原因はいろいろあったようであるが、 「でも、哀しかったのは、人の心ですね。あの事故以来顔なじみになった、ある大新聞の記者が、そばを食べながら言うんです。『体育館の立て替 え交渉で、日本航空が藤岡市の3億円要求をのんだが、どう思いますか』って。 返事しないでいると、『お宅の店にもだいぶ影響が出てるらしいので、どうですか、要求してみませんか』と冗談半分に言うので、『もらえるもんなら もらいたいですねえ』とジョークで応じたんですよ。そしてらね・・・・」(略) 「『ラーメン屋の娘が日航に三億円要求』なんて記事が出たんですよ、数日後に・・・・・。あの大新聞がですよ。 (略)そしたら、事故以来、よく店に寄ってくれていた日航職員のHさん、Yさんが、ピタッと来なくなりました。毎年いただいていた年賀状も・・・・ね。 怒ったんでしょうね。 でも私は、寂しくなりましたね。哀しかったですよ・・・・」 このサイトでは、これまで多くの方から『おすたかれくいえむ』『ふたたびのおすたかれくいえむ』はもう手に入らないかとメールをいただき、ほ んの僅かなひとを除いて、お断りし続けなければなりませんでした。 本書のおかげで私も少し肩の荷がおりた思いです。 文集「茜雲」 8・12連絡会 機関誌「おすたか」 8・12連絡会 「聞こえますか」 8・12連絡会 など てきましたが、今回はじめて自身の活動を振り返る本格的な著書を刊行しました。 本書の一行一行は、いかなる専門家による本よりも、現実に多くの遺族の姿に接し、時には言葉を発せない人たちの代弁者となり、「真相の解 明」のために歩んできた人たちの涙と訴えにあふれています。 そんな著者自身も、多くの人たちの支えと出会いのなかで、息子の「ママ、一人で帰れる?」との最後の言葉に導かれるように、迷いながら25年 を生きてきた。 それでも、「8・12連絡会」が賠償問題の窓口にならないこと、当時まだ被害者や社会には十分認知されていなかった「心のケア」を遺族同士の つながりからはじめ、少しずつ社会の理解を広げてきたこと、後の阪神淡路大震災、信楽高原鉄道事故、中華航空機事故、JR西日本脱線事故な どの被害者たちと連帯の輪を広げ、孤立した被害者たちにともし火をかざしてきたこと功績ははかりしれないものがあります。 無神経なマスコミの取材にさらされる遺族の苦しみ、家庭や仕事の太刀打ちしがたい壁を乗り越えられるかどうかは、ひとそれぞれの時間と環 境のなかで今も続いています。こうした事実のひとつひとつに向き合うことを、すべてのページにわたって私たちに問いかけたくさんのことを教えて くれます。 本書は四半世紀の節目に、もっともふさわしい1冊といえるかもしれません。 参照:管理人ブログ 御巣鷹山と生きる 「いつまでもいっしょだよ 日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故で逝った健ちゃんへ」 扶桑社(1988/08) 美谷島邦子著「白い鯉のぼり」野火の会(1989/08) 美谷島邦子詩集「あかいふうせん」(1990)「あなたに」(1991)「空の小窓」(1992) なぜなら、隣人にも無関心な都会と違って、村民たちは事故の対応に懸命に協力していたし、上野村長黒沢丈夫(くろさわたけお)も、あのとおり 立派な方でしょう。 そのことが、割と世間に知られていないことを、私は残念に思っています」という女性館員の話を聞き、遺族である自分がいつも渦中にいたため か、外側から事故を冷静に見つめることが少なかったと気づく。 雪解けの尾根を登る日航社員、上野村の村民、マスコミの人たちとの交流を重ねるうちに生まれた人間ドラマを、筆者のやさしくもきびしい目とこ ころが追う。 はじめは、一遺族の私的な思いを綴った自費出版的な本かと思っていたのですが、読んでみたら、一遺族でありながら、見事に事故にかかわっ た人々の人間模様を描いた優れた著作であることに驚かされました。 時が経てばたつほど、この本は良い本だという印象が強くなります。 おそらく、日航機事故関連書籍のなかで、事故に関わった人びとをみつめることにかけてはナンバーワンの本と言ってもよいのではないでしょう か。 著者は本書に先立ち『なにか云って 8・12日航機墜落事故26遺族の記録』(1987/8)、『East 0f Eden』(1987)を出されているようで すが、まだ見ていません。 ある日(2002/9)、レジにこの本と田中正造の本を買いにもってこられたお客さん(素敵なご夫婦)がいて、どうしてこの本のことご存知なので すか? と訪ねたらこのホームページでみたのだとと言われました。なんとそのお客さんは、長野からわざわざみえられたとのことで、まだ案内地図もでき ていないのにうちのお店を探し当てていただいたそうで、とても嬉しい思いでした。 ゆっくりいろいろお話したかったのですが、たいして混んでる店でもないのに、たまたま後ろにもう一人お客さんがならんだばかりに十分お話する ことができませんでした。 お名前もうかがっていませんが、どうもありがとうございました。 そんなお客さんもいりことを知ると、ひっ散らかし原稿ばかりのこのサイトも、もっと真剣に仕上げなくてはと思いました。 「520人の犠牲者を出したこの事故は、その何倍にも及ぶ人たちの運命を変え、また、多くの教訓を後世に残した。 炎熱の真夏に発生した大惨事は、連日、マスコミによって大報道された。休暇中の記者もカメラマンも、休暇を取り消されて取材に投入された。 私もその一人である。およそ二カ月にわたって日航機事故に私は没頭した。当時、遺族の多くが、マスコミの取材には応じなかった。 何がおこなわれているのか現象は伝えられても、遺族の情愛や心の奥底の襞(ひだ)をマスコミは伝えることができなかった。 やがて、ぽつりぽつりとその内面の真実が語られるようになっていった。五年、十年、十五年と時が経過するにつれ、その数は増えていった。 しかしその多くが女性によるものだった。愛する夫、息子、娘を失った妻や母が、哀しみをこらえて手記を綴り、あるいはインタビューに答えて、 あの悲劇の内面が次第に姿をあらわすようになっていった。女性たちが心情を吐露し、涙と共に事故の悲惨さと理不尽さが浮き彫りになってきた のである。 しかし、なぜか男の手によるものは出て来なかった。時が流れても男は、その心情を明かさなかった」 (以上、本書「はじめに」より) かくして著者は6章にわたる父と息子の日航機墜落事故の取材を重ねてそれをここに著した。 多くの人にとってその哀しい現実は、最初の数章を読んだだけで耐えがたいものかもしれません。 しかし、今こそ事故や災害といった出来事が、人々の一生をどのように変えてしまうものなのか、また、そこから時間はかかりながらも逞しく立ち 直る人々の姿を知ってほしい。 著者は、この事故で22歳の娘、京子さんを亡くした遺族。 元住友電工の技術者であったことなどから独自に事故原因について調査を始め、アメリカにも足を運び専門家との交流もはかり、事故調査委員会 が、生存率向上の可能性について触れていないことに疑問をもつ。 「11年間に88件の墜落事故があったが、77件、すなわち88%近くが生存可能あるいは部分的に生存可能とされている」(米国国家運輸安全 委員会)ことを紹介したり、サバイバル教官ウェイン・ウィリアムズさんと「自動車の座席でさえ、前方20Gに耐えられるように義務付けられている のに、旅客機の座席は9G規格のままである」ことなどを指摘している。 その後も著者は、航空安全対策の改善のために中心となって活躍されています。 川北氏は「事故後20年たってもまだ多くの未解決のものがあり、これでは520人の犠牲者は安らかに眠れない。この責任のほとんどは、現在の 航空・鉄道事故調査委員会にある」と厳しく指摘している。 川北さんが中心となっている「航空安全国際ラリー組織委員会の開催した国際シンポジウムの報告は、これまで7冊の本としてまとまられている そうです。 が、何故あの日に限って…。運命の酷さを感じずにはいられない。 しかし、幸せだったのは坂本家だけのことではない。520人すべての家庭に幸せな毎日があったことを忘れてはならない。 上を向いても涙はこぼれてしまう。 ボランティア活動を積極的に行っていたばかりでなく、信心深いことでも有名だった九ちゃんの死には、いくつもの謎もついてまわった。 「お棺の番号は「333」で足して九。同乗していて死んだマネージャーの遺体確認番号も「333」。九ちゃんの遺体が発見された16日午後9時5 5分は、飛行機墜落から99時間後だった」 高木規矩郎「死にざまの昭和史」中央公論新社より 「上を向いて歩こう」などの楽譜は数社から出ていますが、本としては他に以下のようなものがあります。 著者は精神病理学の立場から、大事故などに遭遇した遺族の「こころのケア」の問題に取り組んでいる。 これまで、常に加害者側の国や企業は、様々な経験を重ねながらマニュアルなどの対策が進んでいるにもかかわらず、被害者側はいつも始め ての体験者ばかりであり、しかも被害者同士は分断されていることも多く、それぞれが孤立した立場で苦しい闘いを強いられている。 さらに周囲が、精神的ダメージを受けている遺族たちのそれぞれの立場による苦しみの違い、克服方法の違いを理解して適切な援助をさしのべ ることは一層難しいという現実がある。 著者は、こうした現実にたいして、被害者や遺族に求められるもの、また遺族自身が求めているものは、これまでの補償額中心の交渉よりも、ま ず、加害者側の誠意ある謝罪や対応であり、まわりが遺族の立ち直りを暖かく見守り支援していける環境作りであると力説する。この本は著者自 身、日航機事故などの遺族ひとりひとりに精神科医の立場から、それぞれの深い悲しみから立ち直るにはプロセスがあることを説明しながら、日 本各地の遺族に接して支援してきた記録である 事故から年月がたつにつれて、事故の記憶は確かに薄れ、それが遺族に悲しみから立ち直る時間を与えてくれているといえるかもしれないが、 たまたま遭遇した事故によって一家の大黒柱を失ったり、最愛の子供を失ったりして、一生を変えられてしまった遺族の「こころのケア」の問題は まだまだ私たちにたくさんの課題をのこしている。 (こういう優れた本が、このタイトルゆえに日航機事故関係のコンピュータ検索ではなかなかひっかからず、意外と知られていないのが残念です。) 当時「FOCUS」誌のカメラマンとしていち早く現場に到着した小平さん。モータードライブを外した2台の一眼レフカメラと首からさげたライカで撮影 した240カットのうちから51カット(すべてノートリミング)を選んで出版したもの。 事故直後は、遺体が写っているような写真は週刊誌などで無神経に公表されたものも多く、本書の意図もなかなか伝わりにくい環境が長くありま したが、今ようやく、私たちもこうした記録の価値を冷静にみることができるようにもなったような気がします。 まだ中を見ていないひとからは、私を含め、酷い遺体の写真がたくさんのっているものという印象を長く持たれていたようですが、見ていただけれ ば決してそうしたものでないことがわかります。 ひと際大きく印刷されている小さな男の子の遺体を両腕に抱きかかえている自衛隊員の姿、それは、ただ黙って見てください。 そもそも、小平さんは「FOCUS]創刊時のメンバーとして、日本に報道写真の登竜門的な場をきずき上げたいという志をもっていただけに、この写 真集のつくりも格別なものになっています。印刷はアメリカで写真集の出版に関しては最高の技術をもつといわれるところに依頼し、紙も今では手 に入らない耐久保存性の高い特別な紙が使われているそうです。 2000年に英国BBC20世紀報道写真家特集に紹介されたり、海外ではとても高く評価されている写真集です。 また、本書とは別に小平さんは、写真に撮影当時の印象を加えた(ナレーション:江守徹)DVDも作成されています。 間では、作品の完成度の評価がいまひとつといわれますが、素材そのものがあまりにドラスティックだから仕方がないとの意見も。 刊行から10年以上経て文庫化されても、勢いが衰えないのは嬉しい。 第一部、アフリカ篇 上・下は、社内でエリートコースを歩んでいた主人公が、労組活動で組合員のための成果を徹底してあげたばかりに、「ア カ」呼ばわりされ、会社から、中近東、アフリカへと果て無き僻地勤務を命ぜられ、孤独な闘いをつづける。「会社が一人の人間をここまで追いつめ るとは・・・」 第二部、御巣鷹山篇 社内からも安全管理に対してずさんな会社の経営体質が批判されていた矢先、御巣鷹山事故がおきる。日本に帰国した ばかりの主人公は、被害者遺族のお世話をする遺族係となり、この世のものとは思えない惨状を体験する。加害者側の会社の一員としてである が、主人公恩地の誠実な応対が、悲しみにくれる遺族との間に、わずかな橋をかける。 第三部、会長室篇 日本を代表する航空会社の大事故と社内の腐敗。もはや一企業の問題ではすまされず、改革のために国見会長を新たに 招く。 恩地も会長室に抜擢され、腐敗体質を根絶すべく闘いが開始されるが、その根は予想をはるかに超え、それは政財一体の巨大な壁であった。 巨大な航空会社のおそるべき裏面と暗闘…。巨大な力に翻弄されながらも戦い続ける一人の社員。仕事として怒りのやり場のない遺族の正面に 立つ様々な社員の思い。 現代を抉り、人間の真実を問う大作。 この第三部、会長室篇の重要資料になる、吉原公一郎著「伊藤淳二の決断 日本航空会長室」ダイヤモンド社も、一読おすすめです。 小倉寛太郎著「自然に生きて」新日本出版社のなかで、新潮社が「沈まぬ太陽」が刊行する際、当然日本航空から広告掲載を打ち切られ、 定期刊行物の広告収入が大幅な減収をきたしたが、掲載された週刊新潮の売上部数増加分で十分広告収入のマイナスはぼ埋まったことが書か れています。 また、編集担当の山田さんは、単行本で1,2巻が出てベストセラーになった際、「よかったあ」と言って喜んだ途端、血を吐き、入院された。 部下の見舞いに「150万部売れたら報告に来い。それまで来るな。」 と言って、現実に150万部になって部下が報告にかけつけたら、「よかったなあ」と言って数日後に亡くなってしまったとのこと。 ただのベストセラー本ではありません。 『沈まぬ太陽』の主人公(恩地)のモデルとなった著者が、ようやく自らを語る。 どれだけ多くのひとが、著者自ら語ってくれることを待っていたことだろう。 著者自身の数奇な人生は、決して特別な生き方ではないという。 タイトルどうり「自然に生きて」きただけであるのに、「それを珍しがる社会の方がおかしいんです」と。 著者の戦争体験と日航時代のこと、アフリカとサバンナクラブのことなどについての講演をまとめたものですが、どの時代の話をみても、余裕とユ ーモアとふてぶてしさで生き抜いてきた著者のたくましい人柄があふれています。 (既に絶版で手に入らない本ですが、今崎暁巳著「ドキュメント日本航空」労働旬報社(現旬報社)1982年刊は、まさに小倉寛太郎の半生を取材 した本らしいですが、まだ古書でも見つけていません。) 佐高信との対談になっている「企業と人間―労働組合、そしてアフリカへ―」岩波ブックレットは、是非参照してみてください。佐高信が相変 わらずの辛口で、伊藤淳二元会長を美化しすぎていないかとひとくさりついています。 当時の日航の内部事情の凄まじさと、伊藤会長の決死の闘いがうかがえるが、現代の巨大企業の組織管理のあり方の貴重な参考事例でもあ る。 トップの指揮管理の一元化の重要性と、同時にそれだけトップがすべての決定に対してきちんと責任を負うことが、いかに大切かを知らされる。 日本航空、昔話 伊藤会長就任、辞任のあいさつが掲載されています。 同時に辞任した田中茂信元取締役による当時の「日本航空の危険な実情について」もたいへん興味深い。 「人生」「理想」の他著とともに、伊藤会長の胸の内を知ることができる貴重な本。 もし、自分がロビンソン・クルーソーのようになって、たった一人無人島で暮らすようになったら持って行く1冊の本は何にするか。 「私は躊躇なく『論語』にする」という。論語を精読することで身につけた高い志が至るところに現われている。 いくつかの経営者の出処進退の事例取材のひとつとして、「日本航空・伊藤淳二の469日」が取り上げられている。 伊藤淳二は1987年「日本航空全社員のみなさんへ――会長辞任のご挨拶」と題する短い呼びかけの言葉を残して、同社を去った。 別れの言葉は、日航123便事故の大惨事で父を失った小学生の悲詩を引用することから、始まっている。 おねがい パパ もう一回 だっこして もう一回 いっしょにごはん いっしょに ごはん たべようよ 早く 早く おうちに帰ってきて そして おしゃべりしよう 〈館 貞栄 (十歳)作 当時の中曽根首相、後藤田、橋本運輸大臣、と瀬島龍三のラインと福田と親交のあった伊藤会長の真正面からの正論をぶつけた闘いは、脆く も政治の力でおしつぶされてしまう。 ものにとっては、限りなく興味深い本です。 空前の航空機事故に直面した地方新聞社の内幕が、見事に描き上げられています。 2005年にTVドラマ化され、その構成のすばらしさを改めて痛感しました。 事故の取材で多忙を極めている主人公悠木のもとに、交通事故で父を亡くした彩子が再三の面会をもとめた末に、つめよるシーンがあります。 「人の命って。大きい命と小さい命があるんですね」 「重い命と、軽い命。大切な命と、そうでない命・・・・・・日航機の事故で亡くなった方たち、マスコミの人たちの間では、すごく大切な命だったんでr すよね。 私、そのことがわかったんです」 悠木は、この彩子からの投書を、まだ事故の興奮の只中にある紙上に掲載することを決断する。 やがて、読者からの抗議の電話が社に殺到し、悠木はその責任をとることになる。 ただ、日航機事故遺族からの抗議はなかった。 「自分がそこにいたかもしれない」という動機から、日航内部にいたものとして当然の疑問から発しているものですが、この著者の執念と情熱は決 してそれにとどまることなく、既存のジャーナリストをも圧倒するほどの取材・調査を重ねて本書を書きあげています。 そして、そのいきついた先は「事故原因を再調査せよ」です。 遺体の検死、身元確認作業にかかわった医師たちの、活動と個々の医師の体験の記録。生身の医師たちの、十人十色の事故の受け止め方がう かがえる。 医師・看護婦たちの活動をまとめたその他の文集(以下いづれも非売品) 『遺体の身元を追って―日航ジャンボ機墜落と歯科医師の記録』 (群馬県歯科医師会) 『文集 御巣鷹―鎮魂の賦』 (藤岡多野医師会) 『救護体験記―60・8・12日航機墜落現場から』 (日本赤十字社) *ベテランの医師や警官ですら、身を引くような修羅場のなかで、最も献身的な働きと優しさを発揮して現場を支えていたのは、日赤の看護婦た ちでした。 それらの看護婦たちの当時の胸の内は「墜落遺体」の文中からも覗い知ることができますが、それぞれが自ら語る心境はどんなものであったろう か。 まだこの文集は残念ながら私も見ていません。 ある日、川越市の看護師さんが、このサイトを見て遥々お店に来ていただいた時、日赤の看護師と一般の看護師さんとでは、なにかこうした場合 の訓練の仕方に特別な差があるのかどうか伺ってみました。 そしたら基本的に差はないということで、看護師であれば、誰でもこうした対応はできるはずとのお話でした。もちろん、当時現場に向った看護師さ んたちは、ある程度臨機応変な対応力など、選ばれた人たち(または一時的に病院を離れることが可能な立場)ではあったことかと思いますが、 皮ばかりの遺体を取り繕ったり、肉片を遺族が見やすいように抱きかかえたり、やはり、職業として頭が下がるばかりです。 捜索六日目 八月十九日――収容遺体、十七体 収容合計、四百八十一遺体 身元確認された人、計三百五十七体 「現場で視認できる(全身に近い)遺体の収容はほぼ終了した」と県警発表。 著者は群馬県警察医会の大国勉博士などとともに、法歯学の立場から身元確認作業の現場指揮をとった。 ある日、何体分かの骨の塊をレントゲンにかけたところ、細かい骨の他に上顎骨が二つ見つかる。一つは二十歳から二十五歳のものと推定され る男性のもの。 他の一つは同じ歳くらいの女性のものと推定された。その後、うちの娘(息子)ではないかと申し出のあった遺族の生前のレントゲン写真と照合、 合わせてみると、ピタッと合った。 この二人は新婚の夫婦だった。結婚して三ヶ月目で初めて里帰りをする時、この日航機に乗ったのだった。 現場にかけつけた法医学の専門家の中心になって活躍された著者(群馬カトリック教会群馬県警察医会理事、歯学博士)の本。 多数の医師、歯科医師が一度に大量の遺体の検死にあたる作業ではまず「用語の統一」などから始めなければならなかった。 著者自身、夜も眠れないまま連日の作業を続け、8月21日夜倒れる。自分でなければわからないことがある、と頑張り続けた末のこと。 本書はかなり専門的な記述の本ですが、次のサイトで当時の状況を知ることができます。 御巣鷹山航空機墜落事「遺体の身元を追って」航空機事故・大量検視の教訓 「河口博次追悼集」河口博次追悼集刊行発起人会(1988) 森下玲子著「暁の里」 文園社(1991) 菊池定則著「遺恨御巣鷹」(2002) 「やまなみのかなたへ」花川上夫妻を偲ぶ文集刊行会 編(1991) 生駒重一著「御巣鷹山に消えた隆子への便り」 (1987) 山口静江編著「別れの曲」 (1988) 上野村立上野小学校/編「小さな目は見た」 (1985) 上野村立上野中学校/編「かんな川 5(日航123便上野村墜落事故作文特集)」(1985) 長野県南佐久郡川上村川上第2小学校/編「ご遺族のみなさんへ」 (1985) 小林寅之助/著「日航機遭難者の霊に捧ぐ漣歌」 藤岡市明るい社会づくりの会(1985) 慰霊の園/編著「鎮魂のしおり」 (1988) (以上、群馬県立図書館「日航機墜落事故から20年」展示資料を参照)
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