大正2年生まれ
群馬県上野村村長
村長在位年数は全国最長。
1995年から4年間、全国町村会長を務める
第二次大戦中は零戦のパイロットであった。
終戦時は海軍少佐.
2005年、上野村村長退職
2011年、逝去
黒沢村長は零戦隊長として連合軍との空中戦も数えきれない。
「いつ死んでもいいと思った。だが、戦うことしか選択肢のなかった多くの若者が戦場に散 っていった。出動前
夜、部下の特攻隊員が両親や恋人たちに遺書を書いている。彼らを戦 場に送りだすときが一番つらかった」と言う。
いまや黒沢村長は、零戦パイロットの数少ない生き残りの一人だ。だから、誰よりも命の 重みを知っている。生
きることの大切さを知っている。
戦後、郷里上野村に帰り名村長となった黒沢は、日航機事故への対応のあざやかさ、救 難指揮の見事さが、
話題を呼んだ。そして以後15年間、被害者側の立場に立つ「日本航 空」と「遺族側」の双方に信頼される。日航は もちろん、各省庁との的確な折衝や村長とし てのリーダーシップに抜群の手腕を発揮してきた。「黒沢村長だから やってこられた」と村民 や関係者らは、こぞって言う。遺族に対する村長のやさしい心づかいには、零戦で外地の 露と消えた戦友や部下、そして日航機事故の犠牲者を、どこかの部分でダブらせているよ にも見える。
飯塚 訓 「墜落現場」 92ページより
黒澤氏と飛行機との関係が、日航機が上野村に墜落するずっと以前にさかのぼることを 知った時、私は、その
不思議な巡り合わせに驚いたものである。氏の経歴をたどってみよ う。
大正12年、氏は上野村に誕生、富岡中学を卒業すると、海軍軍人を目指し海兵に入学 する。江田島の海軍
兵学校は当時、若い男性のあこがれであった。氏は四年間、ここで心 身共に充実した日々を送り、卒業後は、晴れ て洋上訓練や艦隊勤務に従事。そのころ突 然、念願であった航空勤務を命ぜられる。日本は、次第に日中戦争、 第二次世界大戦へと 暗黒の道に突入。パイロットの腕を磨いた氏は、東南アジアで空の戦闘に参加するが、そ の間、死と向き合うことも二度経験。しかし、その後の氏の生き方に少なからず影響を与え たと思われるのは、最 初の特攻隊員に選ばれた関行男大尉との出会いだったようである。 氏は『道をもとめて』の著書の中で述べてい る。(138項)
「いかに理性で祖国日本のためにと覚悟していても、生きたいと願う本能に抗して、死を 覚悟する心境は尋
常なものではあるまい。戦争というものは、何と非情なものだろう。 (略)軍人の中には純一無雑な心で、祖国 の将来を思いつつ死んでいった多くの人たちが いたことを決して忘れないで欲しい」
特攻隊員関大尉たちほか数多くの若い勇敢な人たちの死が報われず、日本が敗戦を迎 えた時、人は、関大
尉たちの上に、ほかの軍人と同じように戦争犯罪人の名を着せたのは 事実だった。特攻に出発する直前、静かに 苦悩する関大尉の心情を察した黒澤氏には、と うてい耐えられることではなかったと思う。
海軍少佐として終戦を迎え、前橋で終戦処理を終えた氏は村に戻り、昭和40年の初当 選から村長の道を歩
むことになる。氏は「自治体の基本に忠実な村政」のためには、緊縮 財政の必要なことを説き、健康水準、道徳水 準、知識水準の高い、しかも経済的には豊か な村づくりを目指す。氏の掲げた村政は、着実に進められていった。
そのような黒澤氏のおられた上野村に日航機事故が起きたのである。航空機事故の悲 惨さは、戦時中のパ
イロットとしての氏が、だれよりも熟知していただけに、事故後の予想 も早く、遺族に対する深い思いやりには格別 なものがあったのかもしれない。私は、そこ に、何か因縁のようなものを感じてならないのである。
池田知加恵 「雪解けの尾根」 124ページより
上野村の村長室の壁には
「本気になれ、
真剣になれ、
人間らしく生きた時間の合計のみが
人間の年齢である」
と書かれた紙がはられている。
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