戦国時代、上杉、武田、北条の三代勢力がせめぎあう上州で、次々と押し寄せる大波に翻弄され続けた一族は多数
存在します。
しかし、そうした武士団のなかでも、長野業政率いる箕輪城の勢力は、領地拡大を目的とせずに突出した統治能力と
武力をこの上州の地で誇っていました。
真田一族のように歴史の表舞台に華々しく登場することはありませんでしたが、そうした地から上泉伊勢守のような
武芸者が生まれたのも決して偶然ではないことが想像できます。
新潮社(1975/10)写真は初版 絶版 新潮文庫(2002/01)
定価 上巻 本体590円+税 下巻 552円+税
他の歴史上の剣豪たちと異なり、唯一「剣聖」とたたえられた信綱だけに、女性がらみのうわついた話はあまりない。そこを池波正太郎ならでは
の設定でみごとな色気もちりばめた面白い話に仕立てあげています。
上泉信綱入門第一のおすすめ作品。
『真剣 新陰流を創った男、上泉伊勢守信綱』 『新の陰流 上泉伊勢守と疋田文五郎』
実業之日本社(2003/10) 定価 本体1,900円+税 郁朋社(2005/ ) 定価 本体 ,00円+税
新潮文庫(2005/12) 定価 本体895円+税
陰流の祖、常陸の愛洲移香斎に出会い、陰流猿飛の術などを伝授される様子や大胡城落城に至るまでの若き日の
秀綱については、『日本の剣豪 一 乱世の飛天剣』(旺文社)のなかの桑田田忠親による「上泉伊勢守秀綱」の章 が詳しい。
北条方に攻められたとき大胡城は、父秀継から秀綱へ城主はすでに代わっていた。
移香斎から陰流を受け継いだ秀綱は、押し寄せる敵の腕を次々と切って捨てる活躍をしたが、多勢に無勢。
すると老父の秀綱は、
「越後の春日山城をさして落ちのびられた上杉憲政公の訴えにより、ほどなく、城主の長尾景虎殿が、平井城奪還の
ために大兵をひきいて越山してくること必定じゃ。それまで、我らは、小田原への降服を装って、時機を待つがよかろ う。この際、けっして、死に急ぐではない・・・・」
と、言って、秀綱の軽挙妄動を戒めるのであった。老父の戒めはもっともだった。
(略)
無念の涙を呑みながら、先祖伝来の大胡の城をば、あっさりと北条方に明け渡した秀綱は、厩橋(前橋市)にほど近
い上泉の地に蟄居し、老父の看病につとめることにした。
大胡城は、戦国時代にあった小さな城の宿命による必然的な選択なのか、いつも戦わずに城を敵に渡すことを繰り
返した城らしい。
の年(天文十年 1541年)の5月、信州(長野県)への侵攻をもくろんでいた甲州の武田軍は上州に隣接する信州小県郡の滋野氏を攻撃して制圧
しこれを配下におさめたのである。
このとき、この戦いに敗れた滋野一族の分家であった海野幸隆は上州の地に逃げ延びて箕輪城主長野業政公の庇護を受けることになった。
幸隆は信州真田郷の領主であったので、こののち真田の姓を名乗ることになるが、有名な真田幸村の祖父になる人物である。
(山田博久 著 『残雲』より)
武田勢は、弘治三年から永禄九年まで前後九年、6回の遠征を試みている。前半は散々業政にかきまわされている
が、遂に初志を貫いてこれを落城させている。
一万二万の大軍を一ヶ月以上滞陣させる戦いを殆ど毎年行っていたというのであるから、その執拗な征服意欲に驚
くばかりだ。 『上州の城 (下)』上毛新聞社 絶版 より
むしろ、武田の大軍を相手にした名将長野業政の縦横無尽の戦術こそ褒めるべきだろう。
ところが、それほど名将といわれた長野業政でありながら、戦国時代の武将のなかではいまひととつ知名度がひくい
のが残念です。
そうした不満にこたえてくれる本が、ようやく出ました。
戦国時代を代表する武田信玄と長野業政を軸に、信玄の周辺の人物、山本勘介や諏訪姫の物
語、上州をとりまく上杉や北条の動き、長野業政と上泉伊勢守の関係などが、実にみごとにまとめら れています。
著者はシナリオ作家として活躍されてきたこともあるだけあって、その構成力には感心させられま
す。
とりわけ、信玄の箕輪城攻めの様子は、ほかのどの資料よりもリアルに描かれています。
ところが、やはり業政亡き後はみるみる武田方の包囲に囲まれてしまう。
「上州の城」とタイトルをうたっていながら、前記の本などに比べると、城の構造や歴史に関する記述が意外と少なく『上州の諸藩 上・下』の補
巻のような性格の本です。もともと両著は一対の本
柳生の地に新陰流を伝える
信綱が柳生石舟斎に出会う有名なシーンについては、永岡慶之助 著 『上泉伊勢守信綱』が、いくつかの伝聞記
述を比較してくれています。
柳生宗巌が初めて信綱に会ったとき、信綱は先に弟子の疋田文五郎との手合わせをすすめる。
宗巌は、当然ムッとする。
ところが、宗巌は文五郎の構えを一見して愕然とする。
なんの作為もなく、ただ飄然とたたずむかに見える文五郎の五体に、鵜の毛ほどの隙もみられないことに気づいたの
だ。
(これは・・・・)
宗巌は、はじめて気を引き緊め、凝っと相手の隙をうかがったが、どうにも手がだせぬまま、しだいに時が移る。心
中、これではならぬと苛立ち、焦っていると、にこっとわらった文五郎が、
「それでは悪しゅうござる」といい、宗巌が「何っ」と反発した瞬間、
「まいりまする」
文五郎の声が爽やかに響いた、と思ったときには、すでに宗巌の面が軽くポンと打たれていた。
(略)
やがて収まりのつかないまま宗巌は信綱への手合わせを願い、うけいれられる。
ところが今度も同じように
「その構えなら、とりまするぞ」
信綱の声がしたと思うと、あっという間に太刀を奪い取られてしまっていた。
このあたりを『武巧雑記』は、
「兵法つかひの上手に、上泉伊勢というもの虎伯(疋田文五郎)という弟子を召しつれて和洲へ行く。時に柳生氏、上方にて兵法無類の上手なり、
幸ひと思われ、上泉を呼んで、木刀を所望し見て、心をかしく思ふて上泉と仕合を望む。上泉さらば、先ず虎伯と遊ばせよと、再三辞退す。柳生即 ち、虎伯とすかひしに、虎伯、それにては悪しして三度まで柳生を打つ。そこにて是非上泉と仕合をいたしたしとて望む。上泉辞退しかねて向ふと いなや、其太刀にて取り申すとて取る。之によって柳生氏大いに驚き、上泉を三年まで留置し、しんかげの秘伝を伝授す・・・」
これが『正伝新陰流』によると
信綱と宗巌は、三日にわたって宝蔵院道場で試合ったという。立ち会うたは、胤栄法師ただひとり。
間合いを四、五間とって対した二人は、宗巌が新当流青眼の構えをとり、信綱は右手にさげた竹刀の柄に左手をかけた、とみるや、直ちに行動
を起した。
信綱は、道場の踏み板をさらさらと擦るように進むうちにも、はじめ下段にとった太刀を、徐々に上へとあげていき、例の胤栄の場合と同様、太刀
をにぎる両拳が乳の高みにまでくる上段位をとった。
「・・・・・・!?」
宗巌の眼に、ふっと驚きの色が走った。まさに意表をつかれた思いの信綱の構えであったのだ。
そして両者の間合いは、無い。
瞬時にして、「静」は「動」にと転ずる。
信綱と宗巌、そのいずれかが、一歩踏み込めば、勝敗は決する、という一刹那、わずかに信綱の右足がすっと踏み出された。
すると、その機をとらえた宗巌が、
「とうっ」
と、信綱の両拳のあたりを払い打ちに縛った。と思った瞬間、それより一瞬速く、信綱の両拳がさっとのび、宗巌はそのまま太刀先三寸をもって
位攻めに詰められてしまった。
「参りました!」
宗巌は、額に脂汗をにじませ、精魂尽きたおもいで引き退った。
三日にわたる三度の試合が、まったく右のような経過をたどって、同じように宗巌が敗退したというから、両者の技量には格段の差があったと見
なしてよい。
信綱のの様々な剣法については、白土三平の名作『忍者武芸帳』の第二巻で主要登場人物のひとりである重太郎
のまれにみる天分を見抜いた上泉信綱が、
「おぬしに神陰流猿飛の部をさずけよう。」という場面があります。
「今のが猿飛びじゃ 相手のかかるをさがると見せ逆に飛び、相手の脳天を砕く。」
次!!
トーッ!!
「浮船じゃ。」
ダーッ!!
「これが猿回し。」
「相手の太刀と刃をまじえず相手に接近し、わきの下をぬけ同時にわきをなぎあげながら後へぬけ背後よりうつ。」
ヒューッ!!
「今のが月影じゃ、霞太刀ともいう、おわかりかな・・・・・」
「つぎは小陰、だがこれははぶく
おぬしには不要じゃ。ひとつとばして浦波。
といった感じでえがかれています。
『忍者武芸帳』は『カムイ伝』とともに、かつては多くの人びとに歴史の教科書のように愛読された古典マンガでもあり
ます。
是非、今の若い人たちにも読んでいただきたい本。
『忍者武芸帳』の描写をみると、現代の名作『バガボンド』すら私には色褪せてみえます。
奥深く蔵され、世にあらわれること少なかった伝来の古文書はもとより、断簡零墨、語り遺しにいたるまでを渉猟し、さらには信綱の足跡を追って 実地に踏査、かつ香取、鹿島の地に諸流武道家の口碑を蒐集した、いわゆる「足で書いた」執念の凝縮ともいうべき労作である」 永岡慶之助
牧秀彦 『剣豪全史』 牧秀彦 『剣豪 その流派と名刀』
光文社新書(2003/11) 定価 本体780円+税 光文社新書(2002/12) 定価 本体780円+税
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