最近、お店のスタッフの息子さんが奈良の大学に合格したこともあり、なぜか店の中の話題が仏教めいています。
ここに、あたりまえのことですがが、悲しい現実があります。
自分が生きているというのは、日常の会話では過去・現在・未来をごちゃ混ぜにして話していますが、「生きている」という実体があるのは「現
在」、しかも今その「瞬間」のみで、その瞬間を除いた過去も、未来も決して「実体」があるわけではなく、人間の観念の中にしか存在しないというこ とです。
仏教でその唯一実体のあるその瞬間を「刹那」といいます。
その仏教でいう「刹那」がどのくらいの瞬間のことを言っているのかというと、一弾指、つまり指をパチンと一回弾いた間に六十五刹那あるそうで
す。
「まあ、好き勝手言って下さい」程度の話ですが、大事なのは、この瞬間以外、実体はなにもないという歴然とした事実のことです。
人は誰しも仕事をしている時間、家庭生活をしている時間、余暇を楽しんでいる時間など「多面的」生活をしていますが、決して仕事の時間と家
庭の時間、余暇の時間が同時並行に流れているわけではありません。時間は常に後戻りのできない一本の細い線として、仕事の時間、次に余 暇の時間、次に家庭の時間といった具合に流れていきます。
その時間の流れの細い線の上で、実体のあるのは「刹那」といわれる瞬間、瞬間の連続のみで、突き詰めた実体は、決して線のような流れでは
なく「刹那」、つまりその瞬間しかありません。その刹那をすぎた過去はすでに実体「自分の体」にはなく、観念の中にのみ存在します。その刹那 の先も実体「自分の体」にはまだなく観念の中にのみ存在します。1秒先、1年先の保証は誰も持っていません。
つまり、刹那に対応している実体「体」は、ひとつ、瞬間にしかないという意味において、複数の仕事が交錯してあわてたり混乱したりすること、
仕事と家庭が両立しないと悩んだりすることなどはすべて、観念の上でのみおこる「錯覚」「混乱」であり、今あるもの、今できることは、唯一無二 のこの瞬間、刹那の「体」と「心」を何に使うか、何に集中するかということだけであるといえます。
俗に刹那主義とは、先のことを考えず、目先の得を優先する快楽主義といった意味合いで使われることが多いようですが、本来の仏教的な意味
では「その瞬間の感覚・生活を充実させて生きようとする考え方」です。
そして、その刹那に、仕事や遊びなど何かに集中し没頭している様子を「三昧」といいます。これも俗に言われる、なにかをし続けっぱなしでいる
ような意味ではない。その刹那にしていることに集中、没頭するということです。
イチローなどに代表される優れたスポーツプレーヤーの話を聞いていると、この「刹那」「三昧」の考えを徹底して身につけていることがよくわかり
ます。
ピッチャーと対戦するときは、向かってくるボールのことしか考えない。もし、打ち損じたらとか、予想外のボールが来たらなど先の確かでないこと
など考えない。ピッチャーとの過去の対戦のことなども不必要に振り返らない。向かってくるボールにだけ集中する。これまで自分がやってきた練 習からすれば、向かってくるボールにはバットを振れば必ず当たるものである、と考えている。
仕事でも遊びでもすべて、あれもこれもとたくさん抱えている人でも、同時に複数のことや不確かな先のことの可能性を考えるのではなく、今、こ
のひとつの「体」と「心」でできることは何かをはっきりさせ、それに集中、没頭することが一番多くの成果を生む近道であるといえます。
人は常にすべての課題をやり遂げる時間はないが、最重要のことをひとつ選んでやる時間は常にある、といっていたのは誰であったか。
人に与えられている客観的時間に公平、不公平があるわけではありません。使い方に個人差があるだけのことです。
このテーマ館で目指しているのも、そうした意味での「読書三昧」「仕事三昧」「遊び三昧」の境地です。
こんなことを思っていたら、ひとりのお客さんの影響でまた考えがぐらついてきました。
お店の常連で、もう70を過ぎたというちょっと美人のおばあさんが、「私は今まで寂聴さんの刹那の考えとかを見てきたけど、この考えだとちょっ
と悲しくなっちゃうんですよ」というのです。そういってそのおばあさんはナポレオン・ヒルの本を買っていきました。「今しかない」から「今」に集中す るという「刹那」の考えより、ナポレオン・ヒルの考えだと、常に未来に向かって自由自在のように見える。未来にたいして明るく自由であるから、こ っちの方がいいのよ、といったようなことを話してくれました。
普通、ナポレオン・ヒルの本などは、ビジネスマンや起業家向けの自己啓発書といったイメージで見ていましたが、70過ぎのおばあさんが、こん
なことを話して買っていくのをみると、「ははーっ」と思って納得させられてしまいます。
前説撤回!
「刹那」に集中よりも、「未来」を具体的に思い描くこと。
これだよ!人生は。
なーんて思っていたら、またまた優柔不断な私を揺るがすおはなしに出会ってしまいました。
市内の高校図書館の先生と、最近話題の本のことについて話していた際、日木流奈の「ひとが否定されないルール」(講談社)という本が、とて
もいいことを言っているという話になりました。
その図書館のT先生は以前、NHKで日木流奈の講演会の番組をみており、それにいたく感動したということを聞かせてくれました。(そういえば別
の高校の図書館のS先生も、TVでみた日木流奈に感動したといって詩集の注文を出してくれました)
残念ながら私はその番組を見ていないので、T先生の話の紹介になりますが、およそ次のようなことを言っているようです。
講演会で会場のある人が、日木流奈に「どうしてひとは、いろいろと悩んだり、苦しんだりしなくてはならないのでしょうか」といったような質問をし
たそうです。
すると日木流奈(実際にはお母さんが代弁)が〈苦しいこととか、つらいこととかは、その一点(瞬間)でしかないのに、多くのひとはそのことを思い
つづけてしまうからです。(ほとんどの場合、思いつづけてもなにも事態は好転しない)〉といったようなことを応えたそうです。
また聞きのうろ覚えなので表現が正確かどうかわかりませんが、あっ!これも仏教の刹那の考えだ、と思いました。
やはり、実体の無い過去や未来には不必要にとらわれず、この瞬間、「今」に集中しよう!
世の中は 今 よりほかはなかりけり
昨日は過ぎつ 明日は北らず
世の中は ここ よりほかはなかりけり
よそにゃゆかれず わきにゃをられず
只の人、只の人となれ・・・・・
(玄峰和尚の好きな今様 高瀬広居『仏音』朝日新聞社より)
ところが、この「刹那」も「今」と必死に闘っているひととなると、
また、まったくニュアンスが異なってきます。
死す時に死に後れたる朝顔の
昼る頃見れバ 見苦しきかな
今日ハ今日今日かぎりのほととぎす
汝が声のあすハ用なし
田中正造
いろいろな見方があって面白いものですね。
文 ・ 星野 上
参考おすすめ書
重松宗育 「モモも禅を語る」 筑摩書房
瀬戸内寂聴 「生きることば あなたへ」 光文社
瀬戸内寂聴・中坊公平・安藤忠雄 「いのちの対話」 光文社
ナポレオン・ヒル 「成功哲学」 産能大出版
ナポレオン・ヒル 「思考は現実化する」 きこ書房
高瀬 広居 「仏音(ぶつおん)」 朝日新聞社
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