第七テーマ館
赤城村出身の
群馬には、歴史的評価などを見直したい人物が3人います。
一人は、儒学者、高山彦九郎。もう一人は、小栗上野介。そしてもう一人がこの角田柳作です。
高山彦九郎は、認知度こそ低いものの、高山彦九郎記念館が太田市にでき、そこが、充実した資料が閲覧できる立
派なサイトをたちあげているので、当店としては、吉村昭の『彦九郎山河』の普及に専念すればよいと考えます。
もう一人の小栗上野介は、最近ようやく埋蔵金伝説の面ばかりでない人物評価にたいする関心もたかまり、重点テー
マにとりあげている本屋さんもでてきているので、本当はこのサイトでもとりあげたいのですが、まずはよそにお任せし て、地理的にもっとも近い角田柳作を重点に取り上げたいと思っています。
司馬遼太郎の『ニューヨーク散歩』(「街道をゆく」 39 朝日新聞社)のなかでで取り上げられている角田柳作のこと
は、当サイト内の他のページでも紹介しましたが、いろいろな方々の意見を聞けば聞くほど、角田柳作のまだあまり知 られていない魅力すっかり取りつかれてしまいました。
これは渋川高校の先生にいろいろ教えていただいたこともありますが、赤城村の生家「三華園」に一度お伺いして、
いろいろ取材をさせていただくことにしました。
まだ、取材調査には時間がかかりますが、司馬遼太郎の他に長田弘が「詩人の紙碑」(朝日選書)の冒頭で角田
柳作について書いていますので、ここに紹介させていただきます。
「角田柳作先生」のこと ―司馬遼太郎氏への手紙
このようなかたちで、手紙を差し上げることを、ご海容ください。
『ニューヨーク散歩』(街道をゆく」39、朝日新聞社刊)を読んで、とりわけ「角田柳作先 生」をめぐる文章に、
感慨を深くいたしました。
「角田柳作先生」。ニューヨークはコロンビア大学に四十歳を過ぎて学び、やがてその「日 本文化研究所所長」
となり、日本思想史を教え、ドナルド・キーン氏のような逸材を生み、コ ロンビア大学で「日本語でセンセイと発音す れば角田先生のことにきまっていた」そうであっ て講義に没頭して著作をなさず、日本にもほとんど知られず、ただ 知る人のみぞ知る「無名 の巨人」として、『ニューヨーク散歩』に描かれる一明治人の肖像は、銅版画のようにあざ や かです。
その「角田柳作先生」の名を、たまたまわたしは、郷里の伝説を通してつとに親しく記憶 してきました。そし
て、『ニューヨーク散歩』を読みすすむうちに、ニューヨークに遺された「角
田柳作先生」の伝説の奥に、奥州のわが郷里の「角田柳作先生」の伝説が遠景のように重 なってきて、いまさら
のように、すぐれた一人の明治人の独立の気概に、その生涯につらぬ かれた生き方の姿勢に、つよく想いを誘わ れました。
こんな文章を読めば、一段と思いは募るばかりですが、そんなとき、さらに追い討ちをかけるように浮かんだ疑問が
あります。
それは、2001年の刊行の歴史書ベストワンとでもいってよいようなジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」(岩波書店)を
読んでいたときです。敗戦後、マッカーサーは対日占領政策の実行にあたって、親日派の研究者は排除して憲法草案 や様々な占領政策をすすめていったとありますが、それでも東京裁判やマカーサーの対日政策遂行のスタッフに、なん らかの角田柳作の教え子の系譜があるのではないだろうかと思えてならないことです。
ま、あくまでも思いつきでのことですが、そんなことを考え出すと角田柳作の奥行きが、さらにとてつもなく広がってゆく
ようで、またワクワクしてきてしまいます。
また、角田柳作のコロンビア大学における地位も、日本人として異例のものでもあります。
ドナルド・キーンは「ニューヨークの一人の日本人、―わが師、角田柳作先生のこと―」(『文芸春秋』1962年5月号)
のなかで次のように書いています。
「定年は65歳となっていて、たまに特別の理由があるとき68歳までのばすときもある」が、角田の場合は今尚85歳の高
齢であるにもかかわらず、コロンビア大学で講義を続けており、このような特例は空前にして恐らく絶後のこととなろうと 強調している。
キーンはこの論考のメインタイトルの下に「(この人のことを知ってほしい)」と割り書きして、角田の故国の人びとに、
こうした日本人が米国で活躍している事実を是非知ってほしいと訴えたのである。
佐藤能丸著『異彩の学者山脈』より
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