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どう考えたって「足尾」は「群馬」だろう
歴史考証スケッチ



 歴史上、足尾が群馬に入ることが争われた過去の形跡は、まだなにも見つかりませんが、検証するポイントは大まか
に以下のとおりです。

 1、5世紀ころ、毛野国が5世紀後半も終わり近くになると、上毛野国と下毛野国に二分され   るが、その境界がど
のように確定していったのか。

 2、明治維新後、藩から県への移行の際、高崎県、熊谷県など、現在の埼玉県、群馬県、栃  木県の形が確定する
まで何度か変遷をへているが、その際、可能性は低いが、足尾の帰  属が栃木県以外になることが議論されたような
形跡はないか。(ありませんでした)

 3、群馬県勢多郡東村と隣接する栃木県足尾町との間で、境界をめぐるトラブルなどは何か  なかったのか。
    (東村の範囲が現在のかたちになるまでは、細かな変遷は何度かあったようだが、足尾   町との境界をめぐ
ってのトラブルは、今のところなにも見当たらない。)

 4、足尾に銅が発見されてから、その利権をめぐり群馬(上州)側が足尾を引っ張ろうとした   いきさつは何かなか
ったのか。

 5、そして上記4、に対する反証でもあり最も重要なことが、足尾銅山の帰属をめぐる問題。
   足尾は昔から、お寺や幕府の領地であったため、いかに不自然に群馬に食いこんだ土    地といえども、議論
の余地もないといえるような独立性があった。



    「足尾の銅山は、1610(慶長15)年に発見されたと言われています。それは、足尾の   最高峰で農民二人
が銅の鉱石を掘って来て、日光の輪王寺の前身の座禅院に献上した   とかされております。徳川家光公の着袴式
のときだったので縁起が良い、と喜ばれ、足尾   銅山は幕府の直領になったという話です。しかしその翌年銅山奉
行が任命され、巡検し    たところ、そのときには既にたくさんの坑口があったそうで、1610年というのは、銅山が 
  初めて発見された年ではなく、幕府が認知した年です。」
    「足尾は昔から日光の管轄下にあって、お寺の領地でしたが、鉱山関係のみ佐野氏が   入って来て取り仕切
っていました。佐野には以前から天明鋳物というのがあり、鋳鉄が主   体でしたが、ある時期から銅の鋳物をやって
います。最近聞きましたら、今でもその技術   は残っているそうです。そういうものを含めて、佐野氏との関係ができ
たのではないか、と   いう気がします。
    明治になってから足尾は上都賀郡に編入されますが、江戸時代は阿蘇郡といって、葛    生、佐野と同じ群
に属しており、上都賀郡ではありませんでした。そんなこともあっって、    佐野との関係が密接だったと想像できま
す。」
                上邑 康 「足尾銅山史  近世から近代まで」
                    『なぜ、今、足尾か』下野新聞社(1983/06)より


  これが、足尾が群馬に入らなかった決定的理由ですね。

  しかし、もう少し食い下がらせていただきたい。


  まだ江戸幕府が銅山経営をしていたころに、「吹所世話役」というのがあった。これも入手できない本ですが、太田
貞祐著『足尾銅山吹所世話役 星野七郎右衛門』(ユーコン企画)という本に、幕府の銅山経営は吹所世話役とい
う係りが大きな役割りを担っていた様子が詳しく書かれています。吹所というのは製錬所のことで、現場の鉱山(ヤマ)
師と経営の吹所世話役が中軸になって、実質的な銅山経営を担っていたとのことです。
 そして、その吹所世話役というのは、近隣地域の財力・人望を兼ね備えた人物が各地から選べれ、中でも最も足尾
に近い水沼村の星野七郎右衛門が中心となって銅山の経営にあたっていたという。他に大戸村、白井村、武州本庄宿
などからも世話役は出されており、世話役六人衆といわれていた・・・・云々。



 
 大事な銅山の経営・運営に、下野(栃木県)側から誰も出ていないではないか!

 銅の輸送も、もっぱら上州側の渡良瀬川沿いにルートを取っており、下野(栃木県)はかすめているだけではないか。
 坑道で使う木材や燃料などとする木材も、みな群馬県からばかり伐採しているではないか。

 
 みなさん、もう一度地図を見ていただきたい。
 
 どう考えても「足尾」は「群馬」でしょう。



 最近、このテーマ館にメールによる意見交換などで、かつて足尾に住んでいた方の率直な感想なども少し伺うことが
できました。
 地元ではやはり、ずっとそういうものであると思っていたから、不便には感じても、日常的に栃木の大きな町まで出か
けていたとのこと。

 その辺の事情が足尾町郷土誌編集委員会の『足尾郷土誌』(1978)にもそのまま表現されています。
 「他の市町村との交流は、県内では峠路越えが支障となり、渡良瀬川によって開かれている群馬県側へは行政上の
違いから接する機会がなく、足尾独自の生活が展開されてきた。」
                                (『足尾郷土誌』 3ページ)


 やはり、ずいぶん無理を強いられていたのではないか!
 「行政上の違い」など、これからは技術的な問題にしかすぎなくなるのではないでしょうか。


  皆さん!
  やっぱり、どう考えたって、「足尾」は「群馬」でしょう!

 
                                        文責 ・ 星野 上





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