高山彦九郎は、あまりにも戦時中に植えつけられたイメージと奇人と評される多くの評伝の印象が根強く、その実像
が長くゆがめられたままになっている人物といえるのではないでしょうか。
そのことは、この吉村昭の『彦九郎山河』や高山彦九郎の多くの『日記』をつぶさに見れば、誰もがきがつくことです。
しかし、この注目すべき歴史上の人物は、そうした尊王思想家としての印象があまりにも強いばかりに、この地元群馬 でもかえりみられることがとても少ないように思えます。
高山彦九郎は、一言にして言えば「幕府に対して徹底的に抵抗した孤独な運動家であった。武断政治をとる幕府を倒
すため、文治政治をおこなうと期待される朝廷に政権を移譲させるべきだと考えた。その自説を世にひろめるため、幕 府の追及をさけながら全国を遊説した」(吉村昭『歴史の影絵』より)人物といえます。
高山彦九郎については、下記記念館がホームページとともにすばらしい資料を整理していますので、詳しくはそちらを
ご参照ください。
ここでは、簡単に「日本史人物事典」(山川出版社)から引用させていただきます。
高山彦九郎(たかやまひこくろう) 1747〜1793.6.27
江戸中・後期の尊王家。上野国新田郡の郷土正教の子。「太平記」を読み、自分の先祖が新田義貞の家臣であったことに感激、志をたてて上
京。垂加流の尊王思想を学ぶ。のち南朝の遺跡をたずね、郷里の天明一揆にも参加。公卿学者との交流を重ね、三十数カ国を歴遊した。幕府の 嫌忌・圧迫をうけて筑後国久留米で自刃した。林子平・蒲生君平とともに寛政の三奇人とされる。多くの日記、紀行文を残す。
「この日記は、長野県小県郡東部町の矢島行康氏が莫大な私財を投じて蒐集したもので、昭和17年、千々和実氏(後の東京学芸大学名誉教
授)と萩原進氏(後の群馬県史編纂委員)が、矢島氏の子孫憲三郎氏の快諾のもとに、出版を目指して編集作業に入った。
しかし、戦時下であったので、印刷設備の不備と紙不足によって、翌年12月に第一巻の校正刷りが出たにとどまり、終戦を迎えた。
千々和、萩原の両氏は、それにも屈せず戦後も地道な努力をつづけ、昭和29年、全5巻の日記中第一巻から四巻までの刊行にようやくたどりつ
けることができた。」
吉村昭『歴史の影絵』(文春文庫)より
吉村昭から寄贈された「彦九郎山河」自筆原稿も展示されています。
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