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高野長英は脱獄逃亡の過程で、中之条に至る途中、当然渋川を通過しています。
渋川には、国学をおさめながら長英に蘭学を学んだ木暮足翁の家があり、しかも、足翁の家には、長英の従弟であ
る遠藤玄亮が出入りしていたといわれています。
(参照ページ木暮足翁 これ無くとも足れり)
長英は、脱獄後大宮をでてから、野宿を重ね、口にするものは畠から盗んだ野菜だけの逃亡生活を六日間続けてい
ます。渋川の町に入りたいのはやまやまの長英であったことと思われますが、身の安全を考え渋川の町並みを横目に 金井宿へ抜けていたようです。そして吾妻川沿いにさらに身も心もボロボロの状態で中之条までたどりつく。
小説のなかで長英は、渋川は当時商業で栄える町であったため、人目が多いことを警戒し、足翁のところに立ち寄る
のを避けたことになっていますが、郷土史研究家のなかには、渋川南横町の足翁の自宅に立ち寄っていると主張して いる人もいます。
この木暮足翁という人物自体、渋川の歴史を語る上でばかりでなく、高野長英との関係でも非常に面白く、謎めいた
関係を指摘するひともいるので、いずれ詳しくこのテーマ館で紹介する機会もあると思います。 ![]()
吉村昭の小説でも、中之条に多く在住する蘭学者たちとの交流部分はひとつの核心をなしていますが、中之条では
一部の蘭学者ばかりでなく、町をあげて、長英を様々なかたちで匿い、長い長英の逃亡生活のなかでも異例の地とな ったいきさつがあります。
長英の中之条とのつながりについては、金井幸佐久著『吾妻の蘭学者たち―高野長英門下』上毛新聞社(2001)
2,500円 品切れに詳しい資料がまとめられています。 ![]()
長英の直接の門下から、孫弟子ともいうべき人物が紹介されています。
吾妻蘭学の創始者である福田浩斎、長英塾大観堂に学び、やがてその塾頭となる高橋景作など、11人について詳述されています。
草津での温泉療養の地のからみから、中之条からは多くの蘭学者が育っており、史跡として今も残っている民家もあるので、本書資料を手に訪
ねてみるのも面白いでしょう。
もし、実際に中之条を訪れるならば、群馬県歴史教育者協議会編『上州路散歩24コース』(山川出版)のなかの「15、蘭学者高野長英の足跡
を訪ねる」のページに、中之条駅から長英が立ち寄った弟子たちの屋敷などを巡るコース(JR中之条駅→柳田鼎蔵屋敷跡→根岸権六屋敷→林 昌寺→中之条歴史民俗資料館→町田明吉・望月俊斎屋敷跡→鍋屋旅館(田村八十七屋敷跡)→望月俊斎の墓→木暮俊庵屋敷跡→吾妻神社 →高橋景作屋敷跡→関恒斎屋敷跡→福田宗禎屋敷跡→高橋元貞屋敷跡→高橋元貞墓→地蔵堂→JR郷原駅)が紹介されています。 ![]()
長英がはじめて渋川に来たのは、天保七年。
吾妻にかけての薬草採取を目的にきており、「天保七年高野長英上野田を通過す、原沢医院を訪ねる」と古誌に記
されています。
その際、足翁の自宅に寄った時のことを、足翁が周休上人に頼んで作詞してもらったと思われる「某生に代わって作
る」と題した詩稿があります。
(参照 中島励精 著『北毛郷学 堀口藍園』新人物往来社)
テーマ館 新刊堀口藍園と渋川郷学 参照ください
天保七年というと歴史上は天明の大飢饉の再来といわれた天保の大飢饉の年であり、地震、大暴風雨に見舞われ
て、日本中大凶作にうちひしがれていた時期でもあります。
長英伝のベースになったのは、明治時代に曾孫の高野長運によってまとめられた『高野長英伝』のようですが、身
内贔屓の内容は避けられなかった。
のちの代表的なものとして、西口克己の長編小説『高野長英』上・下 東邦出版(昭和47年)、評論家鶴見俊輔によ
る『高野長英』などがあります。 ![]()
(渋川市立図書館で閲覧できます)
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