![]()
吾妻郡吾妻町の岩峰、岩櫃山の東山腹から、岩つづみ、平沢村落を取り入れた1.8kmの大城郭である。
本城は南部にあり、最高所の「いだて」は、東西150m、南北70mの平坦面で、南面中央と西北隅に枡形構造の虎
口(城の出入り口)が完全な形でのこる。
いだての東に二の丸が並び、そこから放射する六条の竪堀は、岩櫃城の特徴を示す。
北の天狗丸と不動沢を隔てた岩つづみ(柳沢城)は、この城のとりでである。
「牙城だけでみると本丸は直接北側に暴露し、この斜面に一筋の壕もみえない。この事から岩櫃城の牙城部は東と南との両方向を主正面として
構成されているので、築城の構想は平沢全域を一地域としていたものであることが肯ける。
而して、追手口を抑えて柳沢城と天狗の丸出城を構えたのである。その面積約1.8平方キロメートル、二万の兵力を長期間起居させることが出来よ
う。また、この全域を守るには五千の兵力では尚、十分ではない。
それはこの城の構造があく迄、陽の縄で、出撃拠点として計画されているからであって、陰の縄と見られるのは本丸、二の丸、三の丸の三並郭
だけである。但し柳沢城は陰の縄を主としていることに注意を要する。」
(山崎 一 著『群馬の古城 北毛編』あかぎ出版より)
吾妻太郎行盛の築城と伝えるのは構造から考えて誤りであるが、南北朝時代に吾妻氏による築城であろう。
行盛の裔と称する斎藤憲次が大野憲直を滅ぼして岩櫃城を奪い、子憲広は吾妻に威を振るったが、鎌原幸重との
争いから武田信玄の介入を招き、1564(永禄7)年信玄の先方真田幸隆に城を追われた。父の跡をうけた真田昌幸は 1582(天正10)年、危機の迫った武田勝頼を吾妻に迎えて復興をはかろうとしたが果たさなかった。
昌幸は岩櫃城を嫡子信幸に与えたが、1600(慶長5)年関が原の戦の後、信幸は岩櫃城を破却し、原町に陣屋を構
えて吾妻を支配させた。 ![]() ![]() ![]() ![]()
岩櫃城が武田勢真田方に攻められたとき、岩櫃城は難攻不落の戦国の名城であったため、兵糧攻めにあった。その兵糧攻めにてもなかなか落
ちない岩櫃城が、地元の坊さんだかが、城の井戸へ通じる水源を敵方に教えてしまい、とうとう岩櫃城は武田に屈することになってしまったという 話を雑誌かなにかの特集で読みましたが、この話のほんとうのストーリーを知りません。悔しさのまま腹を掻き切った城主は、自らのはらわたをそ の裏切った坊主の寺めがけて投げつけた、とか。そしてその怨念の祟りがそのお寺に後々までいろいろとあったとか。
もうひとつ『吾妻の伝説』(あかぎ出版)では、貞和五(1349)年碓氷郡の里見氏が攻めてきた際、城主の吾妻太郎行盛が同じく持久戦に持ち込
まれ、敵に城内に水の無いことを悟られまいとして、無けなしの米を水の流れのようにみせかけて流し、寄せ手の目を欺いていたところ、地元の老 婆が「あのお城に水の出る場所はございません」と敵方に教えてしまった。行盛は再起の望み無しと悟り、腹を切ったうえ自ら首をかき切って壮絶 な最期をとげる。するとその首は高く飛び上がって吾妻川を越え、向こう岸の木の枝にかかり、その首が夜になると見開いた両目から怪光を放ち あたりを照らした、とか。
とかくこの手の伝説は、色々と尾ひれがつくもので、どれが正解とも決め難いものですが、腹かき切って、はらわたを投げつけたという方の話の
出典がどうしても見つかりません。
岩櫃山の地形からは、切られた首が飛んでいく話よりも、腹をかき切って腹わたを投げつける話のほうがはるかにもっともらしくて面白いと思うの
ですが、がどなたか詳細ご存知でしたら教えてください。 hosinoue@hotmail.com
米を水に見せかけて敵を欺くという話は、他にもあるようですが、峯崎淳『大欲 小説川村瑞賢』でも次のような話が紹介されています。
昔、近江の国の音羽の城にいた、蒲生下野守知閑という武将が細川武蔵野守政元に攻められた時のこと。音羽が山城であるため水が乏しいと
考え、城に入る水路をすべて塞いだ。蒲生知閑は困ったが、ある日、敵から良く見える櫓の前に馬を勢揃いさせ、白く研いだ米を桶に入れて並 べ、侍たちが褌一つの素っ裸になって馬を洗った。遠くから見るとふんだんに水を使っているように見え、適はのんびり陣を敷いていたらこちらの兵 糧が尽きてしまうと、退却をはじめてしまう。知閑はこの瞬間を待ちかまえて、先回りして敵を散々な目にあわせたという。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
![]() |