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東西500m、最大幅260m、7郭が1列に並び、三の丸に馬出し跡がある崖端城。
沼田景久の三男景冬(名胡桃三郎)の築城と伝えられる。
御館(みたち)の乱のとき、城主鈴木重則は上杉景勝方となり、1959(天正7)年10月、北条勢を撃退した。
1589年、秀吉の扱いで沼田城が北条に渡されたとき、この城は真田昌幸の手に残り、鈴木主水重則が城代で、鉄砲
など増加して固めたが、沼田城代猪俣邦憲が、真田昌幸の偽書状を作って主水を上田に向かわせ、留守に乗じ名胡 桃城を奪取した。
主水は岩櫃に立ち寄ってたばかられたことを知り、矢沢頼綱から加勢を得て引き返した。
しかしその頃、名胡桃城はすでに北条勢が固めていて入ることができず、無念の涙をのんだ主水は正覚寺で自刃し
た。
昌幸は憤慨し、秀吉にこおんことを訴えたので、秀吉は北条の不信をなじって、ついに小田原征伐の軍をおこした。
この僻地の小城の事件が、秀吉の小田原征伐を通じての天下統一のきっかけとなった。
(山崎 一 著『群馬の古城』あかぎ出版 参照)
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外曲輪から攻めかけて来た敵は、たちまちに撃退された。
城兵は、すこしもあわてず、勇敢に戦った。
真田家の岩櫃城から援軍が駈けつければ、敵が不利になることを、だれもがわきまえていたからである。
そのためか、どうか知らぬが、敵は執拗に大手口から外曲輪へ攻めかけてくる。
火矢が夜空を疾り、敵の喚声はおとろえなかった。
兵力をあつめて攻撃することができるのは、この大手口のみだ。
北の曲輪は厚い土塁の層と深い濠にまもられていたし、二の丸から本丸にかけては険しい崖と深い濠が厳しく敵の
前に立ちふさがってい、地形も凸凹が複雑になっており、一度に攻めかけることは不可能であった。
ところが・・・・・。
突然、北の曲輪へ北条勢が侵入して来た。
中山九兵衛が指揮をとり、防備に遺漏もないはずの北の曲輪へ、
「敵兵が攻め込みましてござる」
との報告を受けたとき、師田頼母は、その異変がどうしても信じられなかった。
当然のことだ。
北の曲輪は、中山九兵衛の裏切りによって北条勢の侵入をゆるしたのである。
九兵衛と、その手勢が内側から木戸をひらき、ひそかに忍び寄っていた敵を、
「招き入れた」
のである。
これでは、いかに堅固な城といえども、たまったものではない。
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