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かみつけの国 本のテーマ館
質(価値)は量によってしか表現しえないのだろうか

作り手側だけでなく受け手側にこそ価値評価の権限を
質や感動は、そもそも量では測れないものではなかったか
―本の「価値」に対するひとつの疑問―



(まだ執筆途上の文です)
例によってまだ、まとまる目途のたっていない文章なので
下書き草稿段階から公表していきます。



本稿は「質は量によってしか表現しえないのだろうか Part1」の続編にあたり、
Part1では、本来、質(価値)は多様な存在であるはずなのに、グローバル社会の進行とともに
一元的な価値評価基準=お金(ドルや円)に限りなく還元される必然性に対する疑問から、
まず、より普遍的な交換を実現するための国際的な交換基準たるドルのような通貨の発生は、
必然であると認めながらも、すべての価値がドルや円などの貨幣でしか
表現されないような社会になっていくのはおかしいのではないか。
ドルに置き換えることのできない円や地域通貨など、もっと多様な価値尺度を
他方でもっと増やしたり、残したりしていく努力がこれから求められるのではないだろうか、
といったようなことを書く予定です。


「質」は「量」によってこそ表現されるのですが、
その「量」は交換の場面によって、現実には様々なタイプの違う量が存在しています。
より多くの交換を求めると、より一元的な「量」が求められますが、
質の内容を忠実に表現しようと思えば、一元的な量に換算されるのとは別のベクトルが働く。
質と量はあくまでも一対の対立概念であって、どちらかに還元されるものではありません。
質は量によってこそ表現されるが、量によってすべて表現しきれるものでもなく
特定の量によって表現し得ない質は、絶えず存在していると思う。

それに続いて本稿では、ものの価値は、これまで作り手側に
その費用(労働時間などのコスト)から決定する権限がすべてあたえられていましたが、
消費社会の進歩とともに、作り手側ではなく消費者側にその価値の決定権が与えられつつあることを反映して
本来、受け手によってまったく評価が異なるような商品の代表たる「本」が
生産・流通コストしか価格に反映されていないのはおかしいのではないか、
といった疑問を投げかけるものです。

そして、かねてから考えていた著者の権利保護の新しい形態の提案に至る予定です。
・・・・さて、うまくもとまるかどうか。






 最近、新古書店の増加や貸本のふたつの形態、漫画喫茶と図書館などの活動が、本の著者の著作権の侵害をして
いるのではないかといった議論がさかんにおこっています。

 しかし、話しの流れをみていて私にはどうも理解できないことがふたつあります。
 ひとつは、本が売れない原因として、新古書店業者や図書館のベストセラー偏重の貸し出しが槍玉に挙げられていま
すが、本が売れない大きな原因は、そんなところにばかりあるとはとても思えないことです。(参照ページ読書の自己目
的化はよくない
 市場の大きな流れからすれば、本の製造・流通コストはこれからどんどん下がっていくことは必至で、加えてペーパー
情報以外のメディアが発達していくことも必至ななかで、本がまったく無くなることこそないにしても、ペーパー本の市場
が縮小していくことは避けられない時代にあると思います。
 このような時代の大きな流れのなかでは、パイの配分の取り合いみたいな議論には、あまりとらわれないほうが良い
のではないでしょうか。

 もうひとつよくわからないのが、本の価値と値段のことです。
 一連の議論のなかで一番騒いでいるのは本の著者の人たちだと思いますが、一読者としてかねがね疑問に感じてい
たのは、著者の労働に対する評価基準は「どれだけ良い仕事をしたか」さらには「どれだけ多くのひとに読まれたか」よ
りも、より正確には「どれだけ多くのひとに買われたか」に尽きてしまっていることです。
 だから、多く読まれたことがシステムとしてカウントされない、図書館や貸本業、リサイクル本などの今の実態に著者
たちは我慢がならないことになってしまいます。

 今の世の中では、確かに、本に限ったことではないのですが、ひとりの人間に強烈な感動を与えたり、そのひとの人
生を左右されるような衝撃をあたえた本を買ったとしても、その本に対する評価は、編集、印刷、製本、流通、販売コス
ト、プラス著者に対する印税以上の支払いの義務はありません。
 
 せいぜい著者や編集者に喜ばれるのは、本についている一枚の「読者カード」といわれる葉書に感想を書いて出版
社に郵送することくらいです。(この読者カードなる葉書を出しているひとは少ないので、あまり知られていないようです
が、これはとても編集者や著者に喜ばれている貴重な情報源になっています。)


 昔からよく言われていることですが、岩波文庫の古典1冊もおよそ400円、読み捨ての娯楽コミックもおよそ同じ400
円。情報が平等に与えられるというすばらしい面があるかもしれませんが、本の一番肝心な部分である情報の価値に
ついては、ほとんど価格には表現されていません。著者が評価されてたと感じるのは、どれだけ深い感動を与えたかよ
り、どれだけ多くのひとに買ってもらえたか、何部刷ったか、何回重版を重ねたかということばかりです。

 もちろん、多く印刷される、重版を重ねるということは、多くの読者の評価があったからこそ実現していることには違い
ないのですが、本のような個人的な体験の場合は、どう考えたって読んだ人の数だけが作品の価値や評価ではないは
ずです。

 たとえば、戦場で命をはって取材をしているジャーナリストが、1冊の本を書き上げたとしても、よほど有名な人でない
かぎり2000〜5000部程度の刷り部数で、定価は2,000円前後が相場です。
 かりに私がその本に出会って、それまで知らなかったその国の戦場の実態を知り、いてもたってもいられなくなったと
しても、、その命をかけて本を書き上げた著者には、2,000円の購入代価以上の評価は、私個人ではできないし、それ
以上の代価を支払う義務もありません。

 もちろん、製作段階で編集者は、より適切な定価設定や著者への印税配分など加味することはあるでしょうが、それ
は2,000円の定価の1,2パーセントの攻防にしかすぎません。

 この著者の労働に対する評価が、著者の原稿用紙何枚分以外の労働の質や量に対しては、まったく関心がもたれ
ず、圧倒的に何人の読者に読まれたかばかりにウエイトが偏っているのはあきらかにおかしいとはいえないでしょう
か。




 こうした問題が、最近ネット社会の新しい技術の幕開けとともに、また別の角度からクローズアップされてきました。
 アマゾンのフルテキストサーチ・サービスやグーグルが世界中の図書館の本を全部検索できるようにしてしまおうと企
む「グーグル・ブックサーチ」プロジェクトです。


以下は梅田望夫の『ウェブ進化論』からの引用ですが、次のようにまとめられています。

 2005年10月21日、朝日新聞は「ネット図書館、著作権を侵害」という記事でこう報じた。
「インターネット検索大手グーグルが運営する図書館の蔵書の内容をオンラインで検索できる「バーチャル図書館」は、
作家の著作権を侵害するものとして、米出版大手マグロウヒルなど5社が19日、図書館の電子画像をネット上で公開
することの差し止めを求めてニューヨークの連邦地裁に提訴した。出版社を代表する米出版社協会(AAP)によると、
著作権をめぐりグーグル側と続けてきた交渉が物別れに終わったため、提訴に踏み切った。(共同)」

 米出版社協会側は「グーグルは著者や出版社の財産にただ乗りして金儲けを企図しているにすぎない」と非難してい
るが、グーグルはその考えに真っ向から反論する。

「グーグル・ブックサーチ」は本を探す(サーチする)ため、つまり人びとが「情報を見つける」ために存在する。情報の存
在を見つけてネット立ち読みができれば、売れない本が売れるようになるケースも多く、著作権にも利するサービスな
のだと。書籍の内容をすべてスキャンして検索可能状態に持っていくことは著作権法の公正使用の範囲で、著作権の
理念に反せず、著作権侵害にはあたらないという立場をグーグルは貫いている。

 しかしもっと本質的には、将来はグーグルの検索エンジンですべての人が「情報を見つける」ようになるはずなので、
「検索エンジンに引っかかってこない情報はこの世に存在しないのと同じですよ」と、グーグルは著者や出版社を脅かし
ているわけだ。両者は完全に平行線をたどっている。」




 ここでもう一度、私の方の問題意識に戻ります。

 「質は量によってしか表現しえないのだろうか」
 言い換えると「本の質(価値)は、本の量(定価や出版部数)によってしか表現しえないのだろうか」(ちょっと安直に
「質」と「価値」を同等に置き換えてしまっていることは勘弁ください)

 結論から言えば、市場での交換を前提にしている限り答えはイエスなのですが、

 現実には、先の著作権議論にも見られるように、著作権など権利として一種の「質」を守るような議論も、その実態は
「質」にはほとんど関係なく、どのような質、価値のあるものか外からはまったくわからないものをしまってある金庫の鍵
を所有する、または購入する権利の争いにすぎないのです。

 かたや金庫の中に何が入っているのか、それが金塊なのかタワシなのかわからなければ買うことができないから金
庫の中を公開させろと。



 これはこれで、今大事な論争なのですが、私の問題意識からすると、問題の核心は別のところにあります。
 著作権を守る側も、情報の公開を主張する側も、「情報の価値に対する評価」にはコミットせず、「どこでお金が取れ
るか」の違いの争いに終始していることです。 

 著作権を守る側の「著作権」といっても、それは大事な価値ある権利を守るようでありながらその実態は「金庫の鍵」
のみの権利であって、ここで守られる権利とは、その中身が金塊であってもタワシであっても同一のものだということで
す。
 著作権とはそもそもそういうものなのですが、そこまでしか問題にされていないのはおかしくないでしょうか。


 多くの情報の価値の実態をよくみると、その情報そのものの価値が表現されている場合は少なく、その多くは、その
情報にアクセスする権利、情報網に参加する権利止まりであることがほとんどです。

 金庫の中身(情報)の実態が金塊であろうがタワシであろうが、金庫の鍵を回数多くあけてもらえるかどうか、または
一本の鍵の値段がどうであるかにしか、関心が向いていないのです。


 これは、情報の独占権、占有権の争いであって、情報の価値をより多くの人びとに知らしめて評価してもらうこととは
別のしくみの問題なのではないかと。


 こうしたことにこだわるのは、私がもうひとつ別の前提にたっているからです。
 それは「情報の値段とは、本来タダである」ということです。

 情報とは、それを独占したり、秘匿したりすることができる場合のみお金が取れるもので、そうした現代のしくみは、長
い目でみるならば過渡期の論理であると思います。


 しかし、浅い議論で結論を急ぎたくはありません。


 詳しい説明をする能力がないのが歯がゆいのですが、そもそも「量」と「質」というのは、一対の対立概念であって、誤
解しないでほしいのは、どちらかに一方がおきかえられるようなものではありません。

 本来、「質」は「量」ではないということだけでなく、「質」を「量」でおきかえるということは、無理を可能にするための人
類の長い歴史の英知が込められていることだと思います。

 (この部分の説明には、もうすこし勉強して自分の頭も整理しなければならないので、とりあえず、話しを飛ばしてしま
います)

 価値はそれ自身では自分を表現することができないために、他のものに自分を置き換えることによってのみ、自らの価値を現実化することができ
ます。その意味で質(価値)は、自分自身で主張するより、交換されることによってこそ、具体的な自分を表現することができるともいえます。ただ
し、その価値は、交換する相手が同量の価値を自身が持っていると認められる場合に限る)
 そして、ふたつの異なった価値を比較する共通の尺度が、それぞれを生産するに要した「労働の量」であるという経済学の原則があります。
 これはあたり前の前提かもしれませんが、生産に要した労働の量以外に、商品の価値は価格に反映されない。
 現実には生きた市場では、価格競争が行なわれているので単純にそれだけに法則で価格が決定されてしるわけではありませんが、ここでもうひ
とつの常識として通用している、価値は需要と供給の関係によって決まるという効用価値説のこともふれないわけにはいきません。

 端折って言ってしまうと、主観性に左右されない客観的尺度として通用する労働価値説に対して、効用価値説は所有者や利用者の主観性や状
況に左右される測定不能な主観性を持っているために、経済理論としては一見勝負あったかのようにかたづけられています。

 ところが、ここでとりあげているような現代の利用者(消費者)側の価値判断や評価が重要な意味を持つ時代になると、もう一度考え直さなけれ
ばならないことがでてきたような気がします。



 どうやら市場経済だからそういうもんだ、といっただけでは問題をかたづけられないような気がします。



 この商品をつくるにはこれだけの労働を要したから、これだけの値段になりますという考えを最近では、生産者自身
が押し通せない事例が多々出てきました。

 ひとつは、消費者側の力が必ずしも強くなったわけでもありませんが、市場で売れるようにするには、どれだけ製造コ
ストがかかったからではなく、先に売れる金額を決定してしまい、あとからそれにあわせた生産方法を開発していく、と
いった例。
 もうひとつは、実際に生産に要した価格よりも割高であったとしても、消費者の側が「安全せあるから」とか「ブランド
力があるから」といった理由で、生産価格以上の負担を自らかってでる例。

 商品の価値、価格を決定する条件として、少しずつ、生産者側だけでなく、消費者の側にもその権限が与えられはじ
めてきているように思えます。




 このことは、以前から大道芸人の世界の人たちから矛盾を指摘されていたことでもあります。

 彼らいわく、「劇場で商売をしている人たちは詐欺師だ」と。

 われわれ大道芸人は、自分の芸をお客さんに見せてから、その芸の評価にふさわしいお金をそれぞれのお客さんの
事情に応じていただく。
 それにくらべて劇場で商売をしている人たちは、自分の芸を見せる前に勝手な自分の方の都合で決めた金額をお客
さんから取ってしまう。
 あとでお客が後悔しようが、どう思おうが一切彼らは責任はとらない。
 これはどう考えても詐欺師と同じではないかと。


 本の世界、情報の世界も、これと同じ矛盾をかかえているのではないでしょうか。

 本こそ、読んではじめてその価値がわかる商品なのに、読む前にその対価を、機械的にたとえタイトル倒しのつまら
ない本であっても、製造・流通経費だけ払えばよいのだろうか、と。
 どんなに面白くても、劇場のように拍手歓声で著者に伝えるわけでもない。ただひたすら、自分と同じような評価をし
た(あるいは同じように騙された)人が何人いたかでしか評価されない。

 最悪の場合でも、どうしようもなくつまらない本を買ってしまったら、印刷製本流通経費分は払うが、著者の印税分くら
いは返すくらいの良心が欲しい。




 そこで私は思うのです。
 遠回りな話をしてきましたが、ここからが第一番目の本題。

 一律の著作料と製造・流通コストしかほとんど価値に反映されない現在の出版システムに対して、もし、読者が自分
の感動に応じて著者なりその本を評価するシステムがあっらとしたら。

 技術の進歩した現代では、それほそ難しいことではないのでしょうか。



 とりあえず思いつくシステムは以下のようなものです。

 私が今日、書店(または古本屋や図書館でもOK)で1,800円の本を買ってきて夜読んだら、近年にない感動を覚えたと
します。この著者は今までまったく知らなかったが、まだ数冊しか本を出していないらしい。でも、こんなすばらしい著者
には是非頑張ってほしいと思う。

 そう思ったら私は電話機をとり(パソコンでもよい)、著作権管理センターのようなところにまず電話をし、自分の識別
暗証コードを入力したら、本のISBNコードをそのままダイヤルする。
 そして、次に自分が感動した分だけ電話機の♯(シャープ)キーを
 ダダダダダダダダダッと感情のまま押す。

 すると、自分の銀行口座から♯の回数だけ10円かける何回で計算された金額が、著者の口座、もしくは著作権管理
センターに引き落とされる。

 コードの入力方法で、著者への評価と出版社への評価を分けて行なうこともできる。
 ♯1回が10円。
 うんと感動したら、*10を押してから♯を押すと、1回が100円になる。
 *100を押したら、1回で1,000円。
 「なんてすばらしい本なんだ」と思ったら、読んでいる途中でも、読了後でも、ずっと後になってその良さに気づいたと
きでも、電話機(またはパソコン)に向かって
♯をダダダダダダダダダ!

 このシステムがあれば、新刊書に限らず、古本を購入した場合でも、図書館から借りた本の場合でも、さらには友人
から借りた本の場合であっても、正しく読者の評価は著者に伝えることができる。もちろん払いたくない人間は払わなく
ても良い。

 優れた著者に対しては、芸人を育てるがごとく、投げ銭的にこのようなシステムを活用するのが正しいのではないでし
ょうか。


 それぞれの評価をしてくれた読者は、匿名希望でない限り著者の側からも知ることが出来る。大金を振り込んでくれ
た読者にはお礼のメールが届いたり、お得意さんの読者には年末にお歳暮なんかが届いちゃったりする。



 さらに、新刊書に限ってであるが逆の評価も可能だと思う。
 せっかく期待して買って読んだのに、あまりにもひどい内容だった場合の「金返せコール」。
 当然全額返すなんてことはできませんが、印刷製本、流通などにかかわりのない純粋な著作権、印税相当分の金額
を、同様のシステムで返還請求ができるシステムが考えられます。
 (ただしこれは、悪用を避けることが難しいかもしれません。)


 原稿の枚数だけで稼いでいる作家や、学生につまらない教科書を売りつけてばかりいる大学教授などが、たちまち
生活が苦しくなってしまいます。

 こうしたシステムができれば、それこそミリオンセラーを出した作家ばかりでなく、ほんとうに良い仕事をした作家や研
究者がそれなりに評価されるすばらしい出版産業が発展すると思います。また、再販制度でゆれる専門書の類もこうし
たシステムでこそ補完されていくのではないでしょうか。

 ね。どう思いますか?



 後で知ったのですが、この投げ銭システムのようなことは、様々な分野の人がこれからの時代に必要なこととして提案していました。
 そのひとつが、カルチャー・オブ・エイジア代表取締役の大原茂桂さんの話。

 「冗談で『おひねりコール』ができないかと言っているんです。ライブなんかを見ていて『今のはよかった』とわざわざおひねりを投げるんじゃなく、
『頑張ってくれ』と携帯で電話をかけるんです。『あなたの1票、あなたのダイヤルコールで、またこのコが育ちます』ということやたら面白いでしょ」
                            中谷彰宏『ネットで勝つ』ダイヤモンド社より



普及しつつある現代の投げ銭システム
    billio(ビリオ) https://billio.com/






また、話を戻しますが、
結局、「質」を別な「量」によって表現しているだけではないか、ということになりますが、交換を前提にしている限り、こ
の根本命題は変わらないながらも、量をはかるモノサシの種類を増やすということと、金庫の鍵の値段や金庫を開け
る回数の問題ではなく、金庫の中身をきちんと評価するしくみづくりが、これからの時代とても重要なことになると思うの
です。

 このテーマ館の根源から「お金」を問う エンデの遺言で、お金というものの意味を考えるところでも、重要な問題に
なっているのですが、そもそも「お金」というものは、その性格を徹底するために、より多くの交換を実現するためには
一元的な価値尺度を求めて普遍化していく根本的な性質を持っています。

 自給自足的な社会から、次第に村社会、都市型社会、国家的社会、国際的社会を発展していくにしたがって、どこで
も通用する通貨が必然的に発達していきます。
 お金ばかりでなく、言葉や文化も同じような運命をたどります。

 もっとリアルに感じるのは、アナロク技術からデジタル技術への進化の過程です。
 それまで、画像情報の動画と静止画や、文字情報などは、アナログ技術の世界では、まったく異質の情報として交
換、変換など不可能な情報でした。
 それがデジタル技術の登場によって、動画であろうが、静止画であろうが、文字情報であろうが、すべて同質な記号
情報として扱えるようになってしまいました。
 これなどは、村社会から一気に国際社会に飛躍してしまったようなものです。

 現代は、このようにあらゆる分野で、情報の均質化がすすむことによって、地理的、空間的、文化的障壁が一気に取
り払われたかの観があります。



 これは、避けることのできない、歴史の必然なのですが、ベクトルはそちらの方向ばかりではないことを忘れてはなり
ません。
 ここが、不十分な表現ながら「質」は「量」によってしか表現しえないのだろうか、という問いの基調なのです。

 根本的に交換という行為は、二つの質の異なるものがあってこそ成り立つものですが、質の異なるものを同じ「量」に
置き換えるという魔法のような作業を行なえるから、交換が可能になるのです。
 その矛盾をより広範に解決しようとすればするほど、より普遍的な量による一元的な比較が必要になるのは必然なな
りゆきです。


 しかし、ひとつのものは、常に多面的、多様、複雑な属性をそなえており、1,000円の品物の実態を数量化した面だけ
でみても、長さ、深さ、奥行き、高さ、面積、体積、密度などの数値をはじめ様々な側面があります。
 
 それ以上に、「価値」といった言葉で表現される「質」は、通常唯一無二の特徴があるからこそ「価値」があるのであ
り、「価値」本来の価値は、交換不能の性格にあるとすら言えるのです。
 さらには、ひとによって、その時々によっても価値は異なり、変動していくものであるから、そもそも一律な基準などは
ありえないのです。


 それをすべて、市場で交換されるときは、いくら、何円というひとつの価値尺度に変換されているからこそ、私たちは
便利な日常生活を送ることができているのですが、それは、あくまでもその場の買い手と売り手のあいだで、そのもの
のどの側面の価値に対して評価しているかによるものです。
 異質なものを、同質なものに置き換えて交換するということは、人類の長い歴史を通じて培われてきた偉大な「知恵」
であり、「方便」でもあります。



 「貨幣」の場合も「言語」の場合もこの点、とてもよく似ているのですが、市場が国際レベルで発達すればするほど、共
通(機軸)通貨としてのドルや、共通言語としての英語、あるいはエスペラント語が普及していくのは避けられない必然
であると思います。
 しかし、それだからといって既存の各国の従来の通貨や民族ごとの言語が将来不要になるかといったら、とんでもな
い間違いであると思います。

 ナショナリズムとインターナショナリズムの関係も、まさにこれと同じことですが、国際交流、交換、共通化といった流
れは、これまであまりにも市場の国際化のためというベクトルが強すぎたために、国や民族固有なものにたいして、観
光エキゾチズム的ノスタルジー以上の関心があまりにももたれない傾向があったように見えます。

 国際化、インターナショナリズムというものは、異質なそれぞれの文化や言語、習慣、通貨などがあるからこそ成り立
つものであるという、ある意味であたりまえのことを、ようやくふり返る時代になってきたともいえます。
 哲学の領域では「差異」という言葉を軸にこうしたことを見る流れがありますが、猛スピードで進む世界市場化の流れ
が、「差異」の減少の方向に急速に進んでおり、利益を生み出す残りの「差異」がどこにあるかを血眼になって捜し求め
ているのが今の世界市場の実情よもいえるでしょう。

 
 このあたりをうまく説明するには、もう少し「貨幣」や「言語」について勉強しないとわかりませんが、それぞれに固有の
質を残すためには、一元的な交換を優先した量による比較だけではなく、それも大事ですが、同時に固有の多元的な
量をはかる様々なモノサシを残しておくこと、あるいは新たなモノサシも創造すること、さらには、個人の側から、消費者
の側からの評価や価値付けが行なえるようなしくみづくりが、極めて大事な時代になってきているのではないかと思い
ます。

 本来、「ドル」に対する防衛策として「ユーロ」などが生まれていますが、それは現代のグローバル化の流れに対する
反動的防衛策のようなもので、「ユーロ」に対する「マルク」や「フラン」の防衛といった価値機軸も当然必要なことである
と考えられます。

 また、国内通貨である、たとえば円に対して、本来の地方自治や地域経済が活性化する時代を想定するならば、自
治体ごとの通貨や、現在試行されている地域通貨なども当然発達してこなければいけないと思います。

 繰り返しますが、決して国際化されることがいけなくて、地域性を守るために地域通貨や民族言語が必要なわけでは
ありません。
 国際化されればされるほど、変換可能な共通通貨や共通言語が必要であるのと同時に、地域性をもった変換不能な
地域言語や地域通貨も残す必要があるということです。

 本稿のテーマにそって言えば、「質」は「量」によってこそ表現できるのですが、様々な「質」を一種類のモノサシではか
る「量」に置き換えるようになるのは、必要なことであり、必然であり、大変便利なことには違いありませんが、だからこ
そ、同時に、異質なものは、異質なままはかることができるような、変換不能なモノサシも同時に残しておくことが限りな
く大事であるということです。

 より万能なモノサシを求めることは必要なことであり、歴史の必然でもありますが、それぞれの地域で使いやすい個
別なモノサシ、特殊なモノサシが残り、あるいは進化発展することも限りなく大事なことであることだと思います。

 もっと大原則から言えば、「価値」とはそもそも、個別的であり、個人的であり、主観的であり、さらに直感的ですらあ
るということを忘れてはなりません。



 昔から、永六輔が鯨尺を残そうと頑張っていますが、単に古いものを残すことが文化財保護的な意味で良いのでは
なく、そのものに、極めて固有な現実的価値が認められるから必要なのです。
 今消え去ろうとしている多くのものは、マス市場で採算にのりにくくなってしまったから消えてしまうのが多いだけであっ
て、そのものの存在価値がまったく無くなってしまったわけではないのです。だから、マス市場でなくても採算にのるだけ
の努力や、もし必要であれば適切な保護も含めて努力されるべきものが世の中にあふれています。

 そしてそのもの固有の価値や質を「量」によっしきか表現できなくなってしまった社会の歪みが、いたるところで噴出し
てきている時代なのではないでしょうか。

 人気テレビ番組で、私も楽しく見ていますが、美術品や骨董をお金の金額でしか見れないような感覚、人と人との関
係を法律や補償、賠償金額でしか解決できない人間関係、これは複雑な社会問題を解決してくれる立派な知恵です
が、かといって、それしか見えなくなってしまい社会になってしまったら、末期的社会ともいえるのではないでしょうか。
 隣の人間が信じることができず、契約や訴訟でしか解決できなくなってしまったアメリカの真似を先を競ってする必要
がどこにあるのでしょうか。



 で、本のことにまた話を戻すと、現在の本の定価によって表現されている本の「価値」以外に、本の価値を表現するモ
ノサシがあって当然なのではないでしょうか、ということです。
 


ああ、やっぱり収拾つかなくなってしまいました。

 この先、経済理論のやっかいな問題に関わり整理しなければならないことを思い悩んでいたところ、ちょうど運良く哲
学者内山 節さんがちょうど私の疑問に答えてくれるような以下のことを書いているのに出会えました。


 ・・・価値は労働時間によってつくられる。ところが使用価値は非合理的である。それは労働時間によって生産された
ものでもないし、使用価値の「量」はそれを使う主体のあり方によって変化する。
(略)

 だがそのときも私たちは次の一点では一致していた。それは価値の合理性、使用価値の非合理性についてである。
 そして合理的とは、その量が客観化できるということである。前記したように商品の価値は、それを生みだした労働時
間として客観化できる。ところが使用価値は第一に生産した者の意志や腕、技能に依存し、第二に使用者の主体に依
存する。つまりここには客観化する基準がないのである。

 それは価値が量的なものであるのに対して、使用価値が質的なものだからであろう。とともにこの量的合理性に裏付
けられた価値の生産過程は、それゆえに技術的合理性の確立を可能にし、逆に使用価値の生産過程は非技術的で
ありつづける。すなわち主体、技能、腕、といったものが軸になるのである。


                         『時間についての十二章』 岩波書店

  内山さんは、私の「質は量によってしか表現できないのだろうか」という無理を問う感覚的な設問の仕方ではなく、使
用価値とはそもそも客観化することのできない非合理的なものであることを解き明かしてくれているのです。

 このことが、内山さんのその他の著作によって、労働というものが「賃労働」=時間によってはかられる性質のもの
と、絶対的価値をもつ存在としての労働(=使用価値生産の過程)を区別し、一般的な疎外論とは一線を画した労働過
程の問題を掘り下げてくれています。




 人類の「偉大なる叡知」? それとも
   人類の長い歴史でつちかった「偉大なる方便」

人類はその長い歴史を通じて、この交換不可能なそのぞれのもののうちにある固有な価値をいかにして交換可能なも
のにおきかえて表現するか、叡知をめぐらせてきたともいえます。

 その意味で、交換しにくいものを交換しやすいものへ変える行為=質を量によって表現する過程であったといえます
が、その量に変換された時点で、そのものの固有の価値(質)は、同時に具体化したとも、抽象化したとも、薄れてしま
ったとも言うことができます。

 この非合理性をもった個別の使用価値をいかに交換しやすい存在に変えていくかということが、長い人類の歴史を通
じて発展させられてきた「偉大なる叡知」が結集しているといえますが、その実態からすれば、これは人類の「偉大なる
方便」であるとも言い切れるのではないでしょうか?

 内山節さが指摘しているように、個々の使用価値というのはあくまでも非合理的な存在です。
その非合理の存在をどこかで合理的なものに置き換えるというのは、決して合理的な論理によって解決した作業では
なく、悪までも「方便」にしか過ぎないのではないでしょうか?


 この「人類の偉大なる方便」という言葉に気がついたとき、私はようやく長い間出口のない議論「質」は「量」によてしか
表現しえないのだろうか?という問いの答えを見ることが出来たような気がしました。


 そしてさらに、このことに気がついたとき同時に、人類は一貫してこの交換しにくいものをいかに交換しやすくするかと
いう方向にばかり努力を傾けてきていたことも確認することができます。
 あらゆる価値の異なるものを等質の量によっておきかえる作業を世界中のあらゆる過程で突き詰めてきた結果、最
近になって、より交換しやすくするということ、つまり量に置き換えるということが、固有の価値を下げる方向にしか作用
がはたらいていないことに気づきだし、ものの価値を高めるためには、量によってより多く交換することよりも、交換しに
くくすることによってこそ、むしろ価値は高めることが出来るのであるということが見えてきだしているのです。


 地域づくりや個人の価値の再発見の事例などを見ると、一層このより交換しやすくする過程を、もう一度より交換しに
くくすることで、一見不便に立ち戻るようでありながら、そのもの固有の価値は具体的に感じることができ、付加価値は
そのほうが高まるものであるという現実を多くみることができます。


 この先をまとめあげるにはもう少し時間をください。




 収拾のつかない文章をここでもう一度、荒っぽく整理してみます。


1、「質」と「量」は、そもそも対立し、補完しあう一対の概念であって、決してどちらか一 
 方におきかえられるものではない。

2.「質(価値)」とは、そもそも「量」には置き換えられない、固有の価値、個別・個人的 
 な価値表現である。多くは「直感的」ですらある。

3、人間社会がだんだん大きくなり、組織や社会が発展してくると、個別・個人的な価値
 観の個別性のなかに、共通した特殊性が見出されたり、同じではなくともある程度互 
 換性のあるものがみいだされたりして「普遍」的尺度が抽象化され進化してくる。

4、いかに、より普遍的な尺度が進歩しても、個別価値や「質」の問題は完全に等価解 
 決しているわけではなく、それぞれ表現しきれない固有の価値、質の問題は必ず残っ
 ている。
  その残る問題は、日常の交換上は問題ないというに過ぎないのである。

5、固有の質、価値の根本的問題を解決するには、個別的、個人的な価値評価を表明
 するシステムが必要になってくる。

6,不特定多数への交換を前提にした「量」によってばかり表現される価値基準ではな 
 く、交換や商品化を前提としない労働過程、質の領域が、これから見直されていくべき
 である。



 量に左右されない価値に基づいたものの見方というものを、もっともっと見直していかなければならない時代に、今わ
たしたちはいるのだと思います。
 



              世の中、

             たとえそれが 金であっても、

               多数決であっても、

                ならぬものはならぬのです。

 


毎度のことながら着地点を考えずにジャンプするバッタ(御巣鷹山慰霊登山)のごとき文章になってしまいました。

  (またちょっと一休み) 2006/09/10更新


                                    文 ・ 星野 上





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