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渋川郷学の実学精神


上記表題内容を書く予定でしたが「現代に活かされるべき実学精神」といった内容のページになってしまいました。
毎度のことながら着地点を考えずにジャンプするバッタ(御巣鷹山慰霊登山)のごとく。


 ひと口に「実学」といっても、きちんとした定義にもとづいて使われている表現ではないので、使われる場面によって、
様々に解釈されているのが実情です。 
 現代において「実学」というと、そのほとんどが「実業学」の意味で使われている場合多く、俗にビジネスに役立つ実践
的な学問といったニュアンスで使われています。
 それだけに、ひとまず歴史を遡って「儒学」から「実学」といった表現の歴史を概観してみなければなりません。



  『渋川市誌』の吉田芝渓の紹介のところで、渋川郷学の系譜については、日本の儒学の流れから、儒学折衷学派の
流れをくむものとして、以下のように説明しています。

 「わが国の儒学には幕府の御用学派である朱子学派の外、古学派、陽明学派、折衷学派があり、支配層だけでなく広く一般社会にも大きな影
響を与えた。
 その中で折衷学派は各派の長所を取り入れ折衷し、穏当な学説を唱えた学派で、井上金峨をはじめ山崎石燕も平沢旭山もこの学派に属してい
るので、芝渓を始めとする渋川の郷学関係者はこの折衷学派と考えられる。しかしこの学派と実学ということは直接結びつかない。これは平沢旭
山の人格、学問に対する姿勢が実学的、開明的であったことによるものである。
 旭山が単に儒学だけでなくいろいろな学問に関心をもち研究し、それを芝渓らに伝えている。」



 このように明確な系譜をもって渋川郷学の「実学」精神を位置づけることは困難なことですが、幕末・明治期の儒学そ
のもののうちに蓄積していた矛盾が、渋川郷学などの「実学」精神を必然的に開花せしめた側面があることを強く感じ
ます。
 それは、日本よりももっと儒学思想が浸透していた朝鮮において、教条として硬直化していった儒学にたいするさまざ
まな反発が、必然的に「実学」という方向を発生せしめたことに見て取ることができます。


 

小川晴久 著
『朝鮮実学と日本』 花伝社
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000018939055

 十八世紀に開花した、自国の現実を直視し、諸改革を志向した新しい学問潮流を実学と命名し、発見したのは雀南善、文一平、鄭寅普らであっ
たが、その実学の魅力を分析してみせたのは、今年(1991年)1月65歳で他界された千寛宇氏であった。氏は実学派の鼻祖とされている柳馨遠
(1622−1673)研究の結論として1953年に実学に関して次のような見解を『歴史学報』に発表された。

 実学という新思潮は当時の支配的学問である朱子学の「宗教化」に対する儒学の自己批判として登場したという。

 「ハン渓の時代、この時代は多方面で李朝の時代精神ないし指導理念に対する自己省察が起こっている溌剌とした新思潮の発生した時代であっ
た。ハン渓はこの新思潮のなかで現れ、またこの新思潮を導いていった。
 李朝封建社会のあらゆる秩序に理論を付与したイデオロギーは、実に朱子学であった。"理気四七”の形而上学と実践哲学と礼学等を主たる内
容とする李朝朱子学は、その勢いの行きつく所政治と結びつき、ついに自由な学問批判を拒否し、その形式的、観念的、排他的、強圧的な一面
が徐々に強化され、甚だしく朱子の批判者を“斯文乱賊”と呼ぶまでに至った。このような学問の宗教化に対し、儒学は自己批判が避けられなくな
った。」
                          (『近世朝鮮史研究』325項。日訳『韓国史への新視点』69項)


 自己批判の緒契機として陽明学や考証学、壬辰倭乱による社会的疲弊を救済せんとする現実的な諸研究(社会政策=時務策)、北京を窓口と
したイエズス会が伝えた西洋文化の影響を挙げたのち、千寛宇氏はこのような緒契機をえて形成された新思潮の共通基盤=特徴を三つ指摘し
た。

 「その一つは奔放な知識欲を駆使して、批判し、独創し、権威を否定する“自由性”であり、もう一つは経験的・実証的・帰納的な態度すなわち
“科学性”であり、他の一つは実際と遊離したあらゆる空疎な観念の遊戯を軽蔑し、現実生活からにじみ出る不満と情熱を土台にする“現実性”で
ある。これはとりもなおさず清初の顧炎武が意図したところの“貴創” “博証” “致用”と符号するものである(梁啓超『清代学術概論』)。」


「自由性」「科学性」「現実性」の三規定は十八世紀をピークとする朝鮮実学の特徴づけとしてもっとも簡潔で的確な規定といってよい。
 同時に千寛宇氏は実学の時代的制約性も次のように指摘していた。

 「それでは実学は果たして近代精神とみることができるだろうか。現在と同じ生活形態、同じ時代の型をもつ時代を近代と呼ぶならば、実学は決
して近代の意識でも近代の精神でもない。実学はその批判的立場から封建社会の本質を解剖し、労働しない階級を批判し、身分的な世襲を批判
し、大土地私有を批判したが、その批判の基調は唐虞三代に属するものであったし、その批判の立場も正常な展開をなしえなかった歴史的特性
から超脱してこれを俯瞰できるほど質を異にするものではなかったので、これは西洋の文芸復興(ルネッセンス)がその復古の理想として古代ギリ
シャの市民の自由をもち、強制・宿命・神秘・因襲の封建的尊厳を民衆を基礎にして完全にあばき出したのと好対照をなしている。したがって儒教
を根底とする集権封建社会の規範のなかで分泌された産物であり、また実際に保守的行動でそれに忍従したのである。」(同335項。同日訳80
項)








 この儒教の国、朝鮮と同じ構造が幕末・明治期の日本においておこり、決定的な影響を日本にもたらしたのが福沢諭
吉です。

 『学問のすゝめ』の初編に福沢諭吉の有名な学問観がでており、「実学」という言葉が天下に広がるきっかけにもなっ
た文なのでここに転載します。

  
岩波文庫 http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000001833300&Action_id=121&Sza_id=B0

「学問とは、唯むづかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽み詩を作るなど、世上の実のなき文学をい
云ふにあらず。これ等の文学も自から人の心を悦ばしめ随分調法なるものなれども、古来世間の儒者和学者
などの申すやうさまであがめ貴むべきものにあらず。古来漢学者に世帯持の上手なる者も少く、和歌をよくして
商売に巧者なる町人も稀なり。これがために心ある町人百姓は、其子の学問に出精するを見て、やがて身代を
持崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟其学問の実に遠くして日用の間に合わぬ
証拠なり。されば今斯る実なき学問は先づ次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」

また、ちょっと余談ですが、この『学問のすゝめ』は、累計340万部も売れた驚異的なベストセラー本でもありました。
ひと口に340万部といっても、ピンとこないかもしれませんが、当時の日本の人口は3500万人程度であった時代でのことです。百数十人にひとりは
読んだ(買った)という計算になります。
 現代で超ベストセラーといわれる、ハリーポッターやコミックのワンピースなどの初版部数が三百数十万部という時代です。



丸山眞男 著 
『「文明論之概略」を読む』上・中・下
岩波新書
上:http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000003713769
中:http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000003812224
下:http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000004283063

    



 

 丸山眞男 著 松沢弘陽 編 
『福沢諭吉の哲学』
岩波文庫 http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000030842726

 丸山眞男は上記『福沢諭吉の哲学』のなかの「福沢に於ける『実学』の転回 ―福沢諭吉の哲学研究序説―」におい
て以下のように述べています。


「福沢の実学に於ける真の革命的転回は、実は、学問と生活の結合、学問の実用性の主張自体にあるのではなく、むしろ学問と生活がいかなる
仕方で結びつけられるかという点に問題の核心が存する。そうしてその結びつきかたの根本的な転回は、そこでの『学問』の本質構造の変化に起
因しているのである。この変化の意味を探って行くことが、やがて福沢の実学の『精神』を解く鍵である。」


 以下は、例によって少し横道にそれる話ですが、このように福沢諭吉を深く掘り下げ世にその価値を知らしめた丸山眞男の功績は、決して否定
できるものではありませんが、かねてから西部邁などが指摘していたことでもありますが、丸山眞男は福沢諭吉をかなり曲解しているのではない
かという指摘が最近いろいろ出てきました。
 誰しも福沢の後期の保守的な思想のことは気にはしていながら、丸山眞男の評価をみるにつけ、なるほどなるほどと明治維新期の革新的気概
にふさわしい解釈にいかにもと納得させられていたようです。このことは、西部邁がいくら指摘していても、どうせ反丸山の立場からのこれも西部流
の解釈にしか過ぎないのではないかくらいにとられてしまっていたのではないでしょうか。
 西部邁の言うことは信じられないという人でも、下記の本の説明ならば納得がいくのではないかと思います。
 
 

安川寿之輔著
『福沢諭吉と丸山眞男 「丸山諭吉」神話を解体する』
高文研(2003/07)
定価 本体3,500円+税
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000031160353




 回り道が過ぎたようですが、渋川郷学の実学精神を現代にいかにうけつぐかといったことを考える場合、まず、このよ
うな日本の「実学」普及の歴史をふまえることが、今は大事であると思います。

 そのうえで、個々の芝渓や足翁、藍園の足跡資料をたどることは必要なのではないでしょうか。
 私は、藍園が立派な人物だと言われても、どうしてもその実像について残されている資料からだけでは想像つかない
ものが多く、いったい何が優れていたんだろうか、立派な教え子がたくさん育っているといっても肩書き以上に、具体的
に何をした人物とはっきり語れるような名を知りません。

 中国に、日本の吉田松陰に比較される人物(実際には松蔭よりずっとスケールの大きい人らしいのですが)で王通
〈文中子〉(584〜618)という人がいます。この人も非常に尊敬をうけて、その門下から唐という革命王朝の建設にあた
って活躍した幾多の人傑が出ていますが、やはり、それほどの人でありながら、遺著がほとんど残っていません。
 それがまた考証学者からさまざまな異論を投げかけられる原因にもなっているのですが、上杉鷹山の師である細井
平州なども、共通した問題を感じます。

 なにか、もともと文字では表現できない人徳の世界のようなものがあるような気がします。
 さらに、現代でそのことにふれるて語ること自体も、とても難しいことのようにも思えます。


 客観的歴史資料の収集や整理は確かに無条件に大事なことですが、それだけでは、今歴史を学ぶ意味と、芝渓や
藍園の評価を見直す意義は郷土史研究家以外、誰も興味を示さなくなってしまう恐れがあります。

 藍園らが、先駆をなした実学精神に代表される功績は、現代でこそもっと積極的に発展させられなければならない局
面をむかえていると思います。



渡植彦太郎『学問が民衆知をこわす』
農文協 人間選書103



ここでは「実学精神」の社会的にブレイクしたきっかけとして福沢諭吉に代表される明治をとりあげましたが、
もう少し元をたどると、天明の大飢饉(参照ページ立松和平『浅間』)以後の時代、
上杉鷹山(参照ページ上杉鷹山と折衷派の時代)や高山彦九郎(参照ページ彦九郎山河)、二宮金次郎、
はたまた良寛などが出てきた時代に教条的な学問から脱皮した契機を感じることができます。
この時代は渋川郷学の発生時期,吉田芝渓の時代とも重なるので、
いずれ年表などを添えてじっくり考察してみたいと思っています。

文 ・ 星野 上


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