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この山城は、遠くから見るのと、近くで見るのとは随分印象が異なる城跡です
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小天狗
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室町時代、吾妻の豪族・斎藤氏の山城であったこの地は、戦国時代は越後の上杉氏の勢力下に置かれた。1562年に真田幸村の祖父に信州
から侵攻されて二年後に落城、多くの城兵が死に、斉藤一族は岩場から飛び降りて自決したとされる。
1702年、江戸の高僧と地元民の尽力で三十三体の石の観音像が山中のあちこちに建てられた。1854年(嘉永七年)に行なわれた「嘉永の大
修復」の後には、風雨にさらされ、明治初期の仏教排撃運動では首を落とされるなどした。 読売新聞 2005年2月6日より
この「首なし」の理由については、藤岡市下落合の石仏、数百あるほとんど首なしの羅漢像を例に次のような指摘もあります。
『よく言われるのは、明治初年の神仏分離令の際、神社境内の仏教関係のものが破却されたといわれるが、この七興山古墳の例などは当時の
廃仏毀釈の影響だけではなさそうである。しかも欠いた首がほとんど転がっていない。どこかへ持ち去られているのである。また、廃仏毀釈なら首 以外に胴体までも破却するはずである。
このことについて、最近小川直之氏が「斬首の民俗・廃仏毀釈と石仏」の小論を発表しているので、概要を記すとつぎのようである。
日本には曝首の風習があり、古くから生首は軍神への生贄としてきた。また、1月14日のドンドン焼きの帰りに月に自分の姿を映じてその影に頸
がはっきり見えれば吉、よく見えないときには凶といわれた。首のない像に石をあげると首がつながり復活できると考えられていた。長崎県壱岐島 では、首のない地蔵に海から拾ってきた石をあげ頭とし、守り神としてきたという。
藤岡市の首なし羅漢のなかにも首の代わりに小石があげられたのが数基ある。復活を願ったのであろうか。廃仏毀釈の難にあっただけではなさ
そうである。』
近藤義雄 著 『上州の神と仏』 煥乎堂 より
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中之条町五反田にある戦国時代の古戦場「嵩山」(789メートル)に点在する石仏群の「平成の大修復」が町民有志の手で進んでいる。約三百年
前に戦死した武将たちの慰霊のために百体が建立され、百五十年前にも大修復が行なわれたが、八十体で再び破損が目立っていた。メンバー は「石仏は町の遺産。きれいにして次の世代に伝えたい」と話している。
九月に現地調査が始まり、十月から修復が必要な石仏を背負って下ろし、町内の石工三人がノミをふるっている。石仏はほとんどが高さ1.1メー
トル、重さ約20キロ。周辺の自然石製とみられ、同じ色の石材で破損部分を復元している。石工の一人斉木三男さん(29)は「また百、二百年後 に修復する石工に笑われないよう、丁寧に仕上げたい」と意気込んでいる。
こうした様々な記事などから、地元の人びとにとても愛されている山であることがうかがわれます。
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余談ですが、嵩山(たけやま・たかやま)、高山(たかやま)とも呼ばれる山ですが、中国の洛陽の近くに嵩山(すうざ
ん)という山があります。ここは、拳法で知られる少林寺のあるところで有名であるだけでなく、禅で有名な達磨がここを 拠点にして教化活動をおこなった地でもあります。
この群馬の嵩山が、中国の嵩山のごとく、心身鍛錬の武道や学術の拠点にでもなったらすばらしいことと思います。
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