第六テーマ館 今、戦争をどう語るか
1、1931年から1941年(太平洋戦争開始まで)
注 1932、34、35、36年は戦死ゼロ
2、1941年12月8日から1945年8月15日まで(戦中4年間)
3、1945年12月から1960年まで(戦後15年間)
堀口さんが、この本をまとめようと思ったのは、かねてから聞かされていた堀口さんの叔父である堀口茂八郎さんの
戦死がダンピアという地で、いったいそれがどこなのかという疑問から始まったそうです。
ダンピアまたはダンピールという地は土井全二郎著『ダンピールの海』という本でも知られる、日本の8隻にのぼる
大規模輸送船団が一度にアメリカ軍によって撃沈された海域です。
輸送増援船団輸送船 8隻、護衛駆逐艦8隻中4隻、全滅兵員乗組員3664名というなかに渋川出身者が34名お
り、そのなかに堀口八郎さんがいたということです。
「海面に漂流している将兵に加えられた敵機による執拗な機銃掃射は忘れられない」
(本書資料 6)
このダンピール海峡の悲劇は、太平洋戦史をふりかえったとき、とても象徴的な惨劇でもあるので、ここでさらに次の
一文を紹介させていただきます。
昭和18(1943)年3月のダンピール海峡の悲劇と呼ばれた海空戦は、八隻からなる輸送船のすべてが沈められ、乗船していた陸軍の兵士
3500名の大部分が溺死している。しかし、船団の被害はそれだけではなく、前年夏からのガダルカナルでも同じ状況だった。もちろん悲劇はこの 後も続き、日本陸軍の精鋭部隊は戦場に到着する前に大損害を受けてしまう。
なんとか生き残った兵士たちも、兵器、資材、食料が届かないので、実力を発揮できない。太平洋の島々における戦闘で、日本陸軍が苦戦を強
いられた最大の原因はこの点にある。
昭和18年という年には、大きな海戦は一つもなかった。航空戦はラバウルを中心に続いていたが、水上艦部隊(特に大型艦)はまったく動いてい
ない。大和、武蔵はもちろん、他の戦艦、巡洋艦も眠っていたといってもよいほどであった。それならニューギニアへの船団のエスコートに出動あて ればよい、と思うのだが・・・・・・。
すでに鈍速のため、空母と一緒の行動がとれなくなっていた旧式戦艦(山城、扶桑)は、この任務になら投入可能だった。場合によっては、囮の
役割に使ってもよい。
当時の戦況を考えると、ダンピール海峡で沈んだ八隻の輸送船とそれに乗っている陸軍部隊の方が、一隻の旧式戦艦よりずっと価値がある。ど
うも海軍の船団エスコートはおざなりであった。
これに関して陸軍は、海軍を信頼する以外に打つ手が無かった。海軍は最初から最後まで、日露戦争の日本海海戦を夢見ていて、
・味方の輸送船団の護衛
・敵側の輸送船団への攻撃
に熱心でなかった。陸軍はその失敗の影響をまともに受けてしまったと言うしかない。
一方、アメリカ、イギリス軍は、船団エスコートの重要性を十分知っていた。例を挙げれば地中海のマルタ島をめぐる戦いのおり、イギリス海軍は
14隻の輸送船の護衛に、
航空母艦3隻、戦艦2隻、巡洋艦7隻、駆逐艦24隻、小型護衛艦18隻
という大戦力を投入している。
日本海軍が船団の護衛に空母、戦艦を用いたことなど一度としてなかったのではないか。ガダルカナル、ニューギニアへの輸送には海軍の手空
きの艦艇を総動員すべきだった。
昭和17年の秋以降、日本陸軍は太平洋戦域に限れば、動かせる戦力の3分の1以上を海上で失っているのではないか。アメリカ軍の航空機と
潜水艦は、まさに面白いように日本軍の船を沈めている。もともと数が少なかった戦車や大砲が戦場に届かないとなれば、いかなる兵士の闘志も まったく役に立たなくなる。この点、海軍の失敗は十分に追求される
べきだろう。
さらに、堀口さんの調査は、様々な軍隊用語から高崎15連隊などにも及び、地元の戦史をたどる貴重な道標となる
ものです。
群馬といえば高崎15連隊を想像しますが、1932年以降に高崎15連隊で亡くなった人は意外と少なく、太平洋戦争時
期になると、歩兵115連隊、215連隊などその都度編成された部隊へ動員された方が多かったことなどもこの本で知る ことができます。。
この表にまとめられた渋川の戦死者、940名という数字は、
太平洋戦没者213万人 (日本国人口7300万人という時代)
終戦時戦力 陸軍640万人、海軍186万人
という国の実態の上にあります。
通常、世界どこでも、兵員に対して、後方の生産者が二倍必要であるという考えからすると、20代から40代までの男
子をいかに根こそぎ動員してもとても追いつかない当時の国力の実態も見えてきます。
学校の調べ学習などで、この表の一つの年代や地域から、その戦没者をたどるような調査などをしてみたら、とても
興味深いものが見えてくることと思います。
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