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第二テーマ館 群馬の山と渓谷
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街道という言葉を使ってしまうと、つい中仙道や三国街道などの江戸時代に整備された主要道を思い浮かべますが、
古代から人とモノの行きかうところにはどこでも、物理的に踏み固められた道にとどまることなく、なんらかの名前のつ いた道があったといえます。
その道は、現代の乱開発による歴史遺産の破壊を嘆くまでもなく、歴史をたどり、先人の足跡をたどる積極的な目を
もってしなければ見分けることのできないものですが、逆にそうした目をもってすれば、身近ないたるところにその痕跡 を見出すこともできます。
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本書は宇都宮で自費出版のようなかたちで出された本のようで、図書館や関係者配布分以外の一般の目に触れるような機会はあまりなかった
ようです。
はじめは毎日新聞の群馬版に広告企画として連載されたものを、著者が栃木県に移ってから本にまとめられたもののようです。県立・市立の主
要図書館にはあると思います。
本書との出会いが、このページを作成するきっかけをつくってくれたともいえます。
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1、八十里越−会津と越後を結んだ歴史の街道 2、津軽白神 3、仙北街道−古代東北の謎を秘めた千年の道 4、越後下田の砥石街道
−信仰と産業が交錯した山岳世界 5、足尾根利山の索道−首都圏の水瓶に残された文明の残骸 7、会津中街道−白湯信仰の陰に隠れ た不運な峠道 8、黒部川、日電歩道 9、松次郎ゼンマイ道 10、北海道、増毛山道 11、米沢街道、大峠 12、熊野古道、小辺路 13、鈴鹿、千草越え
14、八十里越の裏街道−古道の織りなす原郷の風景
「あのころは良がったな。径なんてもんは、人が来れば黙ってでも譲り合ったんだし、ついでに世間話のひとつも出たも
んだ。相手が牛でも馬でもたいした違いはねえが、車が通る道になった途端におかしくなってしまった。車が来ればこっ ちは文句なしにどかねばなんねえし、それで挨拶があるわけでもねえ。なんかおかしいべ。人が通るための径が、いつ の間にか車のための道になってるわげだがらな」
八十里越で著者が出会ったこの親父のなにげない言葉は、今、とても大事な意味を持っています。
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歴史をつくった道はまず、食料、農産物などの輸送の前に、金、銀、銅、鉄などの資源の探索と輸送の道でした。
そうしたことは知られていながら、古代において水銀のはたした役割についてはあまり注目されていませんでした。
本書では墨が普及する以前から朱による色付けが一般的に行なわれていたことや、ミイラ保存や化粧などのために利用されていた水銀の価値
に注目して、著者は全国の産地や地名をたどる。
なかでも古代の朱砂の産地としてこと、紀伊半島とともに群馬が突出した地域であったことも興味深い。
歴史の道を考える新しい視点を与えてくれる好著です。
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これぞ名著、お宝本と言わずしてなんと呼ぶ。図書館でもあまりお目にかかれないのが惜しい。
目次をひろっただけでも、十分その奥の深さがうかがい知れると思われるので、以下に記します。
上巻 T 神話
1、隠し道 2、神々の道 3、衣通の道 4、挽歌の道 5、猿の道 6、黄泉の道 7、遊女の道
8、海上の道 9、水行陸行 10、くぐつの道 11、道の神の道 12、道
U 伝説
1、義経伝説 2、盲人の道 3、橋の思想 4、海道の文芸 5、遊行の道 6、修験の道 7、海賊の 唄 8、静伝説
9、蝦夷の道 10、忍びの道 11、道ノ者 12、阿国伝説
下巻 V 紀行
1、謡坂 2、妻籠 3、殿 4、王滝 5、奈良井 6、洗馬 7、諏訪 8、美篤 9、鹿塩 10、新野
11、設楽 12、佐鳴湖
W 意識
1、書簡 2、日記 3、講演 4、論文 5、編集 6、旅 7、文体 8、詩その一 9、詩その二
10、映像その一 11、映像その二 12、時
山田宗睦は、他にも『日本の「道」』 講談社1972)など、「道」を求道の広い意味でとらえた歴史解説書を出しているのですが、どれも古書でな
いと手に入らないのが残念。
講談社さん、学術文庫に入れてください!
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先に紹介した高桑信一などと同じような視点を、吉永哲郎さんももっており、上州の峠について本書で語ってくれています。峠については、いづれ
別ページを設けることになるかと思いますが、本書は古道を語るうえでも欠かせない一冊なので、ここに紹介します。
峠行 はじめに代えて
峠は風の通り道だといわれる。山を知る人は、峠付近ではテントを張らないという。遠くから山脈を眺めると、低いところがあるが、そこが大抵は
峠である。人間が時間をかけて、そこを通るのが、一番楽だと考えたからであろうか。
こう考えると、峠は人間の知識の集積だともいえる。
山を越えるという意識は、生きる空間の広がりが、そこに住む人間にとって必要になったからでさる。山を越えなければ生きていけないという、切
実なことがあったのである。
人は生まれ育ったところで、生涯生活できれば幸せであるとした時代は、確かに故郷は人生のよりどころであった。だから、故郷を離れることは
つらかった。そして、できることなら故郷に錦を飾って、故郷に帰りたいと思った。離れなくてはならない人の、悲しい言い分でもあった。
故郷を離れた者は、精神のよりどころとして、いつまでも故郷は元の姿を止めて欲しいと思う。しかし、故郷は美しく感傷的な心を癒す、もとのま
まの空間ではいられない。大都市周辺で生活することが、より豊かと感じる状況は、人は生まれ故郷を出ることを余儀なくされる。
多くの故郷は過疎地帯になった。それをどうすることもできない。全国いたるところに廃村がある。できれば、生まれ育ったところで生涯をおくれた
らと思う。しかし、現代はそれを許してくれない。
峠に立つと、眼下に人の住まなくなった村や廃屋を多く目にする。そして、しばらくは峠を後にして下っていった人々の後ろ姿を思い浮かべる。
元教員である吉永さんは、源氏物語などの地域学習で活躍されていますが、常に生活者の人間の姿を捉える視点を欠かさず、現代人の眼でど
うみるかといった語り口にとても共感をおぼえます。
そのような視点だからこそだと思いますが、冒頭は「三国峠で見た二人の若者」の話として、池波正太郎の描く、若き会津白虎隊戦士の話から
はじまります。
最後にふたたび、高桑信一著『古道巡礼』のなかの言葉を紹介します。
「滅んでしまった径を復活させることの意義とはなんなのだろうと、ふたたび思う。たとえていえば、滅んでから長い歳
月を過ごした径は、復活に際して同じ歳月を必要とするのではあるまいか。その径が、必要とされた同じ用途と目的を 携えて復活するのではないからである。
古道の復活は知的行為だが、そこには観光に走ることなく、小さな作為のままに維持をしつづけなくてはならないとい
う、明確な責任が伴う。郷愁に駆られての一時的な行為なら、それは単なる愚行に過ぎない。」 ![]()
追記
古道や峠の問題に限定したことではありませんが、群馬の歴史を考えるうえで『神道集』の位置づけを強調している
識者が多いことに触れないわけにはいきません。
ここで取り上げた吉永哲郎さんもそのひとりですが、群馬県立歴史博物館館長の黒田日出男さんも「群馬学」のシン
ポジウムのなかで触れられていました。
月刊「上州路」に須田茂氏が連載されてた「群馬の峠を歩く」のなかでも『神道集』をもとにした興味深い記述がありま
す。 ![]()
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