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かみつけの国 本のテーマ館
 第六テーマ館  今、戦争をどう語るか

前田哲男『戦略爆撃の思想』



 このテーマ館では、今、戦争をどう語るかという問いかけを狙いにして、あえて群馬という地域性と、イデオロギー先行
で語ることのないようにするために、零戦というテーマを中心にとりあげましたが、このことは必然的に戦争ということを
技術の側面でばかり見てしまう危険を孕んでいます。

 歴史の事実を詳しく見ていけば、技術の歴史のみをとっても、十分その核心に迫ることは可能であると私は思います
が、やはりそれだけでは多くの誤解を招く危険をまぬがれえません。

 その危惧にこたえてくれる本がここにあります。


前田哲男 著
『戦略爆撃の思想 ゲルニカ-重慶−広島への軌跡



朝日新聞社(1988/08) 定価 2,500円絶版

 現代教養文庫 社会思想社
上巻 本体1068円+税 (1997/02)絶版
下巻 本体1068円+税 (1997/02)絶版

 【補足】  社会思想社は残念ながら今はなくなってしまいましたが、元編集部長の浦田さんが文元社を通じてオンデマンド出版で教養文庫の復
刊をされています。本書がその復刊にラインナップされているか確認はしておりませんが、こうしたことが可能になったことはうれしい限りです。


待望の新訂版が凱風社より、2006年7月刊行されました。
、このホームページの声が届いたのでしょうか。
四六判上製・本文12級2段組・640頁 定価4,500円+税
 

 戦史へのゼロ戦の登場は、中国の都市、重慶爆撃にはじまることはよく知られています。
 当時漢口からの重慶への長距離爆撃機を援護しうる航続距離の長い戦闘機としてゼロ戦が開発され、そのデビュー
から華々しい活躍をしていたことは、坂井三郎の著作などからも知ることができますが、その重慶という中国の都市の
もつ意味と、重慶爆撃という日本軍の作戦の世界戦史上の大きな意味については、この本に出会うまで私もまったく知
りませんでした。


 本書のプロローグで「戦史初の戦略爆撃作戦」「眼差しを欠いた戦争」「もうひとつの真珠湾」として、ゲルニカ以上に
大きな意味をもつ重慶爆撃を次のようにまとめています。


戦史初の戦略爆撃作戦

  第一に、日本軍の重慶爆撃は「戦略爆撃」なる名称を公式に掲げて実施された最初の意図的・組織的・継続的な空
襲作戦であった。ドイツ空軍のゲルニカ攻撃より約1年遅れはしたが、1日限りではなく三年間に218次の攻撃回数を
記録した。空襲による直接の死者だけで中国側集計によれば1万1885人にのぼる。ドイツ空軍が英本土に対して「アド
ラー・ターク(鷲の日)」攻勢を開始し、あの「バトル・オブ・ブリテン」の始まる日までに、重慶は二夏の爆撃を体験し、日
本軍飛行士によって市街地は「平らになった」と報告されていた。英空軍によるベルリン爆撃より「五・三、五・四」の方
が1年3ヶ月も早い。つまり重慶は世界のどこの首都より早く、また長く、かつ最も回数多く戦略爆撃の標的となった都
市の名を歴史にとどめるのである。

 その意味で「重慶爆撃」は、東京空襲に先立つ無差別都市爆撃の先例であり、核弾頭こそ使われなかったものの、思想においてそれはまぎれ
もなく「広島に先行するシロシマ」の攻撃意志の発現であった。第二次世界大戦の中から生まれてきた「戦略爆撃の思想」が広島・長崎を転回点
として核戦略に転移し、航空攻撃から弾道ミサイルによる「経空攻撃」へと飛躍して地球と人類にのしかかっている現実を考えるなら、ゲルニカ―
重慶―広島への流れは、人類絶滅戦争=みなごろしの思想の原型を形づくったといえる。

 加えて重慶から流れ出たもう一つの支流「焼夷弾からナパーム弾」への分野を見ると、東京空襲から朝鮮戦争、ベトナム戦争と続き、イラン・イラ
ク戦争、湾岸戦争に至るまで、枚挙にいとまない血と炎の濁流を目撃できる。これも「重慶の遺産」と無縁ではないのである。


 著者は他のところでも、チャーチルの「一般人の士気は軍事目標である」との言葉などを引き合いに、始めは軍事施設のみを攻撃目標にしてい
ても、多くの戦争で共通して公式・非公式に非軍事目標である民間人、民間施設が攻撃の対象に変わっていく数々の事例を紹介しています。

眼差しを欠いた戦争

 第二に、重慶を一つの始原とする無差別地域爆撃の戦法は、その出現によってまたたく間に戦争と人間とのかかわ
り方をつくり替えてしまった。それは高々度爆撃につきものの大量死や「前線・銃後の消滅」といった領域のみにとどま
るものでなく、さらに深いところで戦争と人間の関係をべつのものへと変換させずにはおかなかった。
 それは徹底的に眼差しを欠いた戦争であった。重慶の人々はだれ一人として、自分の命を奪おうとする日本軍兵士
を目にすることはなかった。戦争の全期間そうだった。1938年2月の小手調べのような空襲から1943年8月最後の空襲
まで、日本軍は一兵たりとも重慶の地に姿を現さなかった。ひたすら上空から爆弾を投下することでのみ、日本兵は重
慶の人々と相対した。

 ゴヤの「五月三日」の絵では、死刑執行人の銃は、殺される男の胸元に触れんばかりの近さで構えられている。『戦争の惨禍』のエッチングに見
る殺戮者と犠牲者の距離はさらに接近し、両者の関係はもっと生々しい。視線はからまり合い、行為者の記憶に必ず断末魔の表情が畳み込まれ
るだろう。
 これに反し、重慶の「五月三日」には加害者の人影はまったくなかった。近づいてくる爆音とつかの間の機影、空気を切り裂く爆弾の落下音、そ
して爆発、阿鼻叫喚・・・・・・。肉体のぶっつかり合いも殺意の視線もない、一方的な、機械化された殺戮の世界だった。人々は侵略者がどんな顔
つきをしているのかを知る機会もなく、死んでいった。

 空中にある者からは、さらに殺人の感覚は欠落した。苦痛にゆがむ顔も、助けを求める声も、肉の焦げる臭いも、機上の兵士たちには一切伝わ
らなかった。知覚を極端に欠いた戦争、行為とその結果におけるはなはだしい落差をもつ殺戮の世界がそこにあった。それは来るべき戦争に新し
い手法を持ち込むはずだった。一年半前、同じ揚子江流域の南京の地で、「農業期戦争の虐殺」に頂点を画するともいえる事件を引き起こしてい
た日本軍は、ここ重慶においては「工業期の戦争」と形容すべき、機械化された殺戮の戦術に先鞭をつけたのである。やがてこの悪夢の世界は、
東京、大阪、名古屋はじめ日本全主要都市の住民に追体験されるところとなる。


 空からの殺戮につきまとう「目撃の不在」と「感覚の消滅」という要素は、同時に、行為者の回心の機会をも閉ざしてし
まう作用をもつ。南京大虐殺に従事した兵士なら、罪の意識にさいなまれない者でも、一生振りほどけそうにない「光
景」や「手ごたえ」をもっているに違いない。これに対し、重慶爆撃に参加した兵士の記憶に残る感触といえば、爆弾投
下装置を作動させるさいの「腕一本の感触」と立ち上る土煙の印象に過ぎない。対日都市空襲に従事したB29のパイ
ロットや広島に原爆を投下したポール・チベッツ大佐と同様、重慶に大量死をもたらした日本人もまた、行為の結果か
ら阻害されていた。

 だから南京の意味が問われるようには、決して重慶は語られてこなかった。

 南京の罪を告白する兵士はいても、重慶に杖を曳く人はいない。

 今なお原爆投下の正当性を主張してやまないチベッツ大佐の頑固な「非転向」をだれも笑うことはできない。


 著者は文庫版あとがきでさらにこう付け加えている
 従軍慰安婦、民間人の強制連行、戦場で使用・遺棄された化学兵器の処理・・・・国内で「戦争記憶の風化」が語られる中、しかし、アジア諸国
からは、新たな戦争責任の追及がいぜんあとを絶たない。それに「蒸し返し史観」と反発するのは誤りであろう。同一の所業が、いまなお世界各地
で起こっているがゆえに「呼び戻されて」いるのである。日本がそれを克服し得ていないがために「引き合いに出されて」いると受け止めるべきた。
 重慶爆撃もそのひとつの例である。対都市爆撃は、朝鮮戦争から湾岸戦争まで、重慶の遺産は第二次世界大戦後の戦史に流血の道を記して
いる。それを確認するため、私はこの本を書いた。

「もう一つの真珠湾」

 三番目に、重慶爆撃は −もちろん中国人の対日感情に大きな役割を果たしたことは疑いようもないが− 同時にア
メリカ人の対日感情に重大な影響を及ぼした。それは当時の日米関係に破局をもたらす要因となったばかりでなく、今
日に至るもなお引用され繰り返される「アンフェア日本のルーツ」のような影も引きずっている。

 エドガー・スノー、アグネス・スメドレーらジャーナリストが、爆弾の降りそそぐ重慶に滞在し、多くの記事をアメリカの読者に送り届けた。『タイム』
と、発刊したての写真雑誌『ライフ』は重慶に常駐駐在員を置き、セオドア・ホワイト、ジョン・ハーシー、そしてカメラマン、カール・マイダンスらの記
事と写真を切れ目なく掲載した。「五・三、五・四空襲」の現場に居合わせたホワイトは、「日本人というと、今もって私は気色ばんでしまう」といい、
次のように書く(『歴史の探求』)。

 「この殺戮に関して重大なのは敵のテロの目的である。南京と上海はすでに爆撃されていた。しかしそれは軍事上の爆撃だった。それに対し、
重慶のこ古壁の中には、軍事目標は何一つなかったのである。にもかかわらず、日本軍は、重慶を灰燼と化す対象に選んだのだ。そしてそこに住
むすべての人びとの精神、彼らが理解しえない精神を挫き、重慶郊外に避難していた政府の抵抗を打ち破ろうとした。
 その後、わが軍が日本軍を攻撃するようになっても、私はいささかも良心の呵責を感じなかった。〈略)無分別なテロであった重慶爆撃は、私の
政治観に直截かつ根源的な影響を与えた」

『歴史の探求』は1978年に書かれた自伝だが、半世紀にわたるジャーナリスト活動を、86年5月の死によって閉じたホワイトは、白鳥の歌となった
論文「日本からの危機」の中で、ひときわ高く「アンフェア日本」の旋律を、11930年代の日本と今日の経済大国日本を重ね合わせながら歌った。
そのときの彼の脳裏には、火の海となった重慶と上空をわがもの顔に飛ぶ日本軍機の黒々とした影が蘇っていたに違いない。
「日本人は、こっちが攻撃してもいないのに攻撃してきたんだ。そして、捕虜を、中国人をひどい目にあわせたんだ。だから・・・・・。
 いや、こういうことを今さら持ち出すと、日本人は、もうそんなこと、全部忘れるべきじゃないかというかもしれない。
 しかし、まだちゃんと覚えている人間も少しはいるって事を、日本人にわからせておいたほうが、いいと思う」

 死の直前のTVインタビューで、ホワイトはこう語っている(NHK特集「アメリカからの警告」)。
重慶爆撃は、日米関係史の中での「もう一つの真珠湾」と表現できる意味と影響力を、あたかも残留放射能の後遺的
影響のように、今も及し続けているのである。



「国共合作の陰謀が渦巻く都で」

 このほか、空襲下の重慶にはさまざまな人がいた。抗日戦争の司令塔となった四川省重慶の非占領地域、すなわち
「大後方」は同時に国民政府首席・蒋介石と四家族(蒋・宋・孔・陳一族)の支配する「白区」であり、陰謀と恐怖政治の
渦巻く「陪都」(臨時首都)であった。外交使節のための公館から、難を逃れて中国全土から集まってきた大学、美術
館、さらには北京や上海の一流料亭まで、おびただしい人と物の流れが、揚子江を遡ってこの地へと集まってきた。

 周恩来も「八路軍弁事処」代表の肩書きで、蒋介石とともにあった。重慶市民は焼け跡で彼の国際情勢分析に耳を
傾ける。郭沫若はここで『屈原』を完成、初上演した。爆撃機のこない霧の季節を選んだ「霧季芸術節」は、市民の大事
な行事となる。
 これらの時代背景と条件もまた、重慶を日本軍機に魅入られた都市として、当時の情勢の中に突き出していたので
ある。






 以上、長い引用をしてしまいましたが、現代の戦争を考えるうえでとても貴重な視点を与えてくれる本です。

 また、周恩来と蒋介石という歴史上稀な運命を共にしたふたりの当時の様子を知る本としても本書はそれぞれの伝
記書に劣らず、重慶を舞台にして迫真のものがあります。

  蒋介石と周恩来の関係は古くて長く、かつ波瀾と事件に満ち溢れている。はじめ二人は孫文幕下の盟友として出発し、やがて国共両派に分か
れた不倶戴天の敵にかわり、また抗日の大目的の前に手を結んだ。戦友、仇敵、交渉相手。二人の関係は中国革命と抗日戦の中でめまぐるしく
変転する。蒋は周の首に懸賞金をかけたが、周は、蒋が西安に監禁されると聞くや単身乗り込んで救出を果たす。四年後の重慶で周と再会した
蒋は、クリスマス晩餐に周を招き謝意を表したその直後、周子飼いの新四軍を破滅させる命令を下す。蒋の牙城で周は「臥薪嘗胆」にひたすらつ
とめ、統一戦線の聖域に身を隠し、最後の決でついに宿敵を倒す。二人の年譜は重なり合い絡み合って興味つきない。                
               (文庫版 下巻 116ページより)


 是非、図書館などでさがしてみてください。 (群馬県立図書館にはありました。2004/05)



 2004年8月、サッカーのアジアカップで日本代表チームが重慶の競技場で、中国の観客から大ブーイングを浴びながらすばらしいプレーを連発し
て闘い抜きました。スポーツと政治は現実にはなかなか理屈どうりに切り離せないものですが、世界戦史上、大きな意味を持つ日本軍による重慶
爆撃そのものをほとんどの日本人が知らないまま、中国人サポーターのマナーを批判しても、簡単に理解してもらえるとは思えません。
 かつて、中国は、韓国のような反日教育はしない国で、多くの日本国民は一部の軍国主義者の被害者であるといった教育が徹底していました。
歴史研究者たちも、戦争責任問題は中国にとっては解決済みの問題で、それは絶えず逆戻りする日本側の問題であるといっていました。
 それが、最近になって若者に対する教育が変わってきたのか、あるいは経済援助を引き出す材料としてや、抗日戦争を戦い抜いた中国共産党
の権威づけに利用される戦争責任論が浮上しているのか、実態はよくわかりませんが、いづれにしても本書の貴重な価値を再認識させられるでき
ごとでした。



  

『ピカソ〈ゲルニカ〉の誕生』
アンソニー・ブラント著/荒井信一 訳
みすず書房(1981/08) 絶版
定価 2,500円+税 


『ピカソの祈り 名画<ゲルニカ>の誕生から帰郷まで』
柏倉康夫 著
小学館ライブラリー 120 (1999/03) 絶版
定価 914円+税



  ちょっと別の角度からになりますが、先の「眼差しを欠いた戦争」という視点で、次の本は鮮烈な問題提起をしていま
す。

  

『他者の苦痛へのまなざし』
スーザン・ソンタグ 著 北条文緒 訳
みすず書房 (2003/08) 
定価 本体1,800円円+税

 「現代社会における際だった特長は、世界中で起こっている悲惨事を目にする機会が無数に存在するということである。戦争やテロなど、残虐な
行為の映像はテレビやコンピューターの画面を通して日常茶飯事となった。しかし、それらを見る人々の現実認識はそうしたイメージの連続によっ
てよい方向へ、例えば、戦争反対の方向へと変化するだろうか?
 本書は、戦争の現実を歪曲するメディアや紛争を表面的にしか判断しない専門家への鋭い批判であると同時に、現代における写真=映像の有
効性を真摯に追求した<写真論>でもある。自らの戦場体験を踏まえつつ論を進める中で、ソンタグが、ゴヤの『戦争の惨禍』からヴァージニア・ウ
ルフ、クリミア戦争からナチの強制収容所やイスラエルとパレスチナ、そして、2001年9月11日のテロまで呼び出し、写真のもつ価値と限界を検証
してゆく。さらに本書は、戦争とテロと人間の本質、同情の意味と限界、さらに良心の責務に関しても熟考を迫る、極めて現代的な一冊である。」
                                       (本書背表紙より)



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