第六テーマ館 今、戦争をどう語るか
前澤哲也 著
なんと紹介したらよいのでしょうか、この本。
すばらしい本です。
あえてこの1冊でページをつくったのには、ふたつ理由があります。
ひとつは文字通りその内容のすばらしさによるものです。
今日の日露戦争観は圧倒的に司馬遼太郎の『坂の上の雲』の影響下にあるといえます。著者はその『坂の上の雲』に代表されるいくつかの
日露戦争にまつわる「神話」を本書のなかでみごとに打ち砕いてくれています。
その叙述は370ページにおよび、しばしば話は横道にそれたりもしますが、たとえ脱線してもほとんど読者に無駄を感じさせるところなく、豊富な
調査資料をみごとに整理して、極めて密度濃く語りつがれています。
もうひとつの理由は、それだけすばらしい本でありながら、店頭におかれたこの本のタイトルと表紙からはそうしたすばらしい内容が想像つかない
こと。さらには煥乎堂さんから発売されたこともあり流通経路が制限され、多くの郊外型チェーン書店にはあまりおかれず、興味をもちそうな読者に 知れ渡る機会をかなり逸してしまっていると予測されることが、なんとか本書の魅力を伝えるページをつくろうと私に決意させた理由です。
2004(平成16)年3月、本書が刊行される直前まで、実はお店で「日露戦争100年 『坂の上の雲』NHK大河ドラマ化決定記念」のフェアを開
催していました。
はじめの販売チャンスは残念ながら逸してしまいましたが、またNHK大河ドラマで再度機会がめぐってくるので、それまで少し時間をかけて本書
の内容を掘り下げて紹介していきたいと思います。
日本陸軍の機関銃神話
日露戦争当時「日本軍には機関砲(銃)がなかった」と思っているひとは、なぜかとても多い。
無かったとまではいかなくても、ロシア軍に比べたら圧倒的に少ない量しか持っていなかったと誰もが思い込んでい
る。
戊辰戦争のときですら、長岡藩が新政府軍相手にガトリング砲を使用しているのに、なぜこんな俗説が流布したの
か、著者は次のように推測する。
「推測だが、戦争に参加した109万人の将兵に対し、日本軍が持っていた機関砲は300門足らずだったので、機関砲
を扱う部隊の将兵以外は実際に見る機会がほとんどなかったのではないか。ただ、ロシア軍は機関銃(日本軍とロシア 軍では呼称が異なる)の使い方が巧みで、特に南山・旅順・黒溝台の戦闘で日本軍に大損害を与えたので、その威力 を身をもって知った将兵が復員後に語った『ロシア軍の機関砲は凄かった。日本軍に機関砲はなかったって?おれは 見た事がねえなあ』が一般に広がったのではないだろうか。」
では実際はどうであったのか。
著者は奉天戦の例を以下のようにひく。
「奉天戦の際にはロシア軍の56挺に対し、日本軍は268門を所有していたというからロシア軍の約五倍の量である。
日本軍は空冷式のホチキス機関砲(フランス製)を採用、一方ロシア軍は水冷式のマキシム機関銃(イギリス製)を採 用していた。機関銃に関しては、日仏“同盟”、露英“同盟”になっていたのは面白い。」 (本書135ページ)
もちろん、時期やその相互の部隊によって所有率は様々であったであろうが、少なくとも、日本軍が持っていなかった
とか、ロシア軍より圧倒的に少なかったということにいはならない。
明治軍人像と兵役拒否者たち
実はこのテーマ館でも、いづれは『明治のひとはスゴかった!』といった内容のページを作ろうと思っていました。
もちろん私も、司馬遼太郎の『坂の上の雲』に啓発された部分もありますが、当サイトの飛行神社と二宮忠八のこと
の中の八甲田山を踏破した福島大尉のこと マタギに学ぶ自然生活の村田銃の開発者のことなどから発展させるつ もりでした。
傑出した指導者や様々な分野の開拓者たちの魅力に惹かれる一方で、私は明治という時代を知るにつれて、徴兵制
を柱として近代国家の確立が進むにつれて他方ですすむ、急ごしらえの体制の歪みや農村部の疲弊の実態が隠しき れないほど噴出してきていたこと、ことに徴兵システムのうえでは、軍内部ばかりでなく、徴兵元の国民生活への影響 が深くあらわれていたことを知りました。
そうした関心に、本書著者は見事に共鳴する内容を与えてくれるものでした。
「第一章 史料から見た日露戦争と群馬県民」では、様々な数字史料や兵役の実態を詳しく調査することによって、
明治という国家と兵役にとられる庶民と軍隊の実像をあますところなく描き出してくれています。
魅力溢れる黒木大将
当店で『日露戦争100年』のフェアを行ったとき、一番良く売れた本は、秋山真之関係でした。
人物としてみた場合、児玉源太郎や乃木将軍の方がずっと面白いと思うのですが、これも『坂の上の雲』の影響でし
ょうか。
秋山真之人気とともに、著者は「軍司令官となった四人の大将(自殺した乃木を除く)の中で、なぜ黒木だけが元帥に
ならなかったか不思議でならない。」という。
著者は、個人的に一番魅力を感じるという黒木大将に関するエピソードを三つ紹介しています。
@ 遼陽会戦の時、ロシア軍に包囲され苦戦中にもかかわらず黒木は草原で昼寝をしてい た。藤井茂太参謀
長が戦後「あの時は本当に寝ていたのですか」と尋ねると「わしが起き てどうこうしたとて仕方がないから寝てい た」と答えた。
A 戦後、黒木は「ゼネラル・クロキ」として、海外では日本人のなかで群を抜いて有名となっ たが、渡米した際、
ニューヨークで妙齢の美人二人に「是非握手したい」と言われると「う む、そうか」とニコニコしながら握手した。
B 第一軍に付き従ったイギリスの観戦武官・ハミルトンが「戦争に勝ったら、その後はどう するのか」と訊くと
「田舎へ帰って百姓でもする。凱旋すれば歓迎されるだろうが、やがて 忘れられる。軍人というものはすぐ忘れら れてしまうものだ」と答えた。
後の官僚化した陸軍軍人をみると、最後の「サムライ将軍」だったと言えるかもしれない。
日露双方の28サンチ砲
また著者は、サハリンのガイドブックのなかの一枚の写真から疑問の旅を始める。
それは、博物館の庭に陳列されている数門の大砲の写真で、その中の一門が旅順要塞攻撃で有名になった28サン
チ榴弾砲とそっくりであることである。
これは、日本が使用28サンチ榴弾砲とまったく同じものであるのか、日本軍のものがここに運ばれてきたのか、日露
双方で同じものを使用していたのか、これは実物を見なければなるまい、と著者の旅は始まる。
司馬はこの大砲についてこう書いている。
この大砲の祖型はイタリアにあった。それと同じものを日本陸軍が大阪砲兵工廠に命じて試作させたのが明治16年というから歴史はわりあいふ
るい。日本にはまだ良質の鋳鉄をつくる技術が十分でなかったから、イタリアのグレゴリニー鋳鉄を輸入し、翌17年にできあがった。
絵はがきにあった1867modelという説明と併せて考えると、日露戦争時には世界各国に「口径28センチで360度回転可能な巨砲」が存在してい
たということか。
東京湾などにあった海岸砲=28サンチ榴弾砲を、はるばる旅順に運ぶ奇策とその運搬作業そのものが、旅順攻略
の大きなドラマでもあったが、はたして当時ロシア側にも28サンチ榴弾砲があったのか?
著者は、『名将回顧 日露大戦秘史』(朝日新聞社)から旅順攻略戦時に攻城砲兵司令部員・少佐であった奈良武次
大将の興味深い談話を発見する。
(28サンチ榴砲弾に)不発弾が多かったことは全くその通りです。併し五分の一も破裂したろうとの話であったが、そんな馬鹿なことはない。五
発撃てば、四発は破裂し一発が不発といふ程度でしたろう。それにしても我々砲兵の将校としては面目ない次第ですが、それが12月半頃と思い ますが、こちらの28サンチ榴砲弾の砲床の下に、敵の撃った28サンチの弾が飛んできて破裂したのです。その時あの大きな大砲が砲床といっし ょに跳ね上げられて毀れたのです。その弾底の砲片に「大阪」といふ字があったのは一驚を喫したのです。
ロシアのスパイが日本の砲弾を送ったのだとか、いやロシア軍が不発弾を撃ちかえしたのだとか様々な憶測をよんだが、実態は旅順開城後に、
引渡委員のベリー長官の話から判明した。
実際に日本の撃った不発弾を、そのまま撃ちかえしていたというのである。
ロシアにも28サンチ砲が確かにあったということである。
史実そのものがドラマであるが、著者のこの旅もドラマというに値するものといえるでしょう。
本書では、こうした興味ある視点をいくつも提供してくれています。
著名な作家や研究者が職業としてまとめあげたものに比べたら、なんと内容の濃い1冊でしょう。
最近、研究者以外の書いた、足で調べた内容の濃い本が、鈴木郁子著『八ツ場ダム 足で歩いた現地ルポ』明石
書店、三浦佐久子著『足尾万華鏡 銅山町を彩った暮らしと文化』随想舎(足尾関連図書ガイド)など続々と出てく るのがとても嬉しい。
月刊上州路 2005年8月号 「特集 第二次大戦と群馬」の特集巻頭論文で前澤哲也さんの「十五年戦争と群馬」が掲載されました。
「県出身特攻隊員の分析 彼らが守ろうとしたもの」と二つの論文で、前澤さんがこの分野で欠かすことのできない存在になっていることを知
ることができます。
なぜこれまで戦争を語る中心世代の人びとが、こうしたことをしてくれていなかったのかと不思議にも思ってしまう文です。
やがて、下記の大著としてそれまでの研究の成果がまとめられました。
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