新館 堀口藍園と渋川郷学
多くのビジネスマンに支持されている人物である上杉鷹山の評価は、ケネディ大統領の一言によるものとともに、童
門冬二のこの本の力よることは間違いないでしょう。
1983年に刊行されて以来、これほど長くコンスタントに売れ続けている本も珍しいと思います。
鷹山が江戸からはじめて米沢入りした際、はじめのわが藩の宿場の惨憺たる実態を目の当たりにして鷹山は愕然と
する。しばらく絶望に打ちひしがれる鷹山であったが、手元の火鉢の灰に埋もれた微かな種火をみて鷹山は「これ だ!」と悟る。
まったく火の気の絶えたかのような火鉢の底にも、灰を掻き分けると、じっと絶えず静かに燃えつづけている微かな種
火がある。
これをひとつ、またひとつと移していけば、それは必ず大きな力になる、と。
鷹山は、倹約に徹した指導者の面が強調されると、嫌悪感を感じるひとも多いようですが、ひとの心をつかむ治世
者、自らを厳しく律することのできる名君として比類の無い存在であることは間違いないでしょう。
もっとも、鷹山に関する本をどれかひとつでも読めば、そんな危惧は無用なことがすぐにわかると思いますが。
ジョン・F・ケネディ大統領は、どこで上杉鷹山を知ったのか。ケネディ大統領に質問した側の日本人記者が「YOUZANN Who?」と慌てたことでし
ょう。
おそらくこの内村鑑三本の本でケネディは鷹山のことを知ったのではないかと言われています。明治の文明開化期の本の多くは岡倉天心の『茶
の本』など、初めから英語で執筆され後に日本語に訳されたものも少なくありません。
本書で内村鑑三は、代表的日本人として西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5人を取り上げていますが、いづれも、西洋の
人びとには強烈な印象を与えたことと思えます。
童門冬二の作品が自己啓発書として見事な啓蒙的役割を果たしているのに比べると、この藤沢周平の『漆の実の
みのる国』は、鷹山の挫折につぐ挫折のプロセスを、本格小説をえがける作者の筆致ならではの力で深く、深く、掘り 下げています。
一見華々しく見える成功の過程は、角度を変えてみれば、挫折と失敗の積み重ねでもあります。
鷹山の改革も、その実態を詳しく見るならば、ともに改革を推し進めてきた仲間をひとり、またひとりと失う孤独な闘いでもありました。。あげくの
果てには、最もその中心的役割を果たしていた家老すらも断罪することになってしまう。
その孤独な姿と、無名の下級武士や足軽、農民たちに支えられて自らの意志を貫く姿は、他の時代小説作家ではなく、この藤沢周平によってこ
そ描けた世界。
藤沢周平ファンの間では、あまり評価の高い作品ではありませんが、童門冬二と対比するとやはり藤沢周平ならではのスタイルが如実に現われ
ています。
童門冬二を読んだ方には、是非、こちらも読まれることをおすすめします。
そんな上杉鷹山が師と仰いだ細井平州とは、いったいどんな人だったのでしょうか。
上杉鷹山の師といわれる儒学者、細井平洲は、研究者というよりは教育者タイプであったため著作や体系的な論文
などの資料は少ないようですが、少ないながらも本書によってある程度その考えを知ることができます。
(細井平洲についての詳しいウェブサイトもいくつかありますので、検索してみてください。)
細井平洲は、人を感動させる話し方にも非常に長けた人であったらしく、平洲がはじめて尾張領内の農村を巡回講演
して廻ると、聴衆のお百姓たちが皆泣いて、その涙と鼻汁で畳がベトベトになって、あとの掃除に困ったほどであるとい います。
細井平洲の講義の様子と人となりを本書では以下のように描写しています。
「声は穏やかでしっとりと快く耳に入ってくる。その話は、日常の暮らし向きや義理人情から始まって、長屋の孝子や歴
史上の名君の物語に及んでいく。その話術に惹き込まれ、思わず膝を乗り出して聞き惚れていると、いつの間にか彼 は中国の孔子や孟子が説いた高邁な思想・哲学を語っている。」
そして細井平州も儒学のなかで折衷派と呼ばれ、理論体系を極めることよりも、教育、啓蒙に力点をおいたひとであ
ったことが、渋川郷学の吉田芝渓や堀口藍園らの姿と重なります。
徳川時代にいたる日本儒学史をここで少々強引に要約するならば、後醍醐天皇の時代ころから仏教僧侶によって輸入されはじめて儒教思想
が、江戸幕府の成立とともに反切支丹、排仏思想の役割とともに、幕府御用学としての不動の地位を得る。
実際にはまず朱子学、宋学を中心にその概要が林羅山らによって確立されるが、朱子学に対する批判者としての陽明学がその内部であらわ
れ、のちの種々の学派への分裂の起点として古学、折衷学などがあらわれる。
そうした流をたどった日本儒教史は、江戸中期までの300年あまりの間に、朱子学から考証学に至るまでの中国儒教史をそのまま、それ相応の
変形つきで圧縮的に繰り返したといえます。
儒教の限界に対する反発は、陽明学にはじまる内部諸派を生み出すが、中国儒教の枠を出る潮流はついに生み出さないまま明治、大正、昭和
まで継続しているともいえます。
儒教に対抗できる思想潮流も、明治維新後の西洋哲学の影響を受けるまで待たなければならなかった。
しかし、日本儒教が陥った思惟の自縄自縛からの解放は、貨幣経済の発展や蘭学の移入などによる経験科学の発
達とともに、江戸中期頃から押しとどめることのできないエネルギーとして、様々なかたちで噴出してきます。
そうしたエネルギーの代表として、治世の面では上杉鷹山、二宮尊徳などが現われますが、それらの人々が折衷派
といわれてる儒教枠内で起きていることも注目されます。
私がなぜ、この学問的まとまりを成しているとはいえない折衷派に注目するかといえば、儒教そのものが抱えている
欠点をそ、の内部で最大限に克服しようとしている契機をみてとれるからです。
このことは、朱子学に対する陽明学の関係の歴史にも同じ構図をみてとることができます。
安岡正篤は、人間の四要素として、「徳性」、「知能」、「技能」、「習慣」をあげて、そのなかでも人間たる本質、人格の
人間たる本質というべき「徳性」を第一のものとしてあげています。
この四要素は、ピラミッド構造をなすようなもので、底辺に無意識な習慣となった膨大な行動の上に、技能・知能とい
った意識的な活動がのっているわけですが、知能・技能がいくら便利なものであってもそれは属性的価値しかないもの であるといいます。
人間の本質的価値は「徳性」にある。
しかし、これは人間価値の順位を言っているのであり、価値の高い「徳性」があれば良いという意味ではありません。
この「徳性」は、その下に知能・技能・習慣といった膨大な裾野があってこそ価値をもつもので、その膨大な裾野を抜
きにした「徳性」だけでは人間の価値は成すことができない。
無意識に習慣化された人間の日々の行為の積み重ねの上に成り立っている。
この順番のもつ意味を、儒教は長い歴史を通じて学んできたともいえる。また同時に、常に忘れてきたようにもみえ
る。
いくら徳を語り、身につけても、それを正しく行なうには、具体的に降りかかってくる様々な現実の諸問題に対して解
決する力を持っていなければならない。それが、医学や建築・土木技術、財政学などの知識・技能の進歩によってこそ なしうるものであると。
このことを上杉鷹山や二宮尊徳らは、歴史の体現者として取り組んだ代表的存在であると思えるのです。
朱子学から陽明学、折衷派への移行は、まさにこの流れの上にあり、さらに明治維新後の福沢諭吉の「実学」と西洋
合理主義崇拝に至るまで、一貫したベクトルが走っていることがわかります。
それだけに、最近になって、修身や道徳、こころの教育が声高に叫ばれるのも無理からぬことともいえるのですが、
この裾野の習慣、技能、知能を正しく積み重ねることを抜きに、道徳の授業を増やしたり、様々な道徳規範をすべての 人に押し付けようとするから、またおかしくなっていまうのです。
大事なのは、「徳性」が一番上の価値をもつというこの順番を親や教師が理解するだけで十分であり、「徳性」とは、
そもそも、人に語るよりも、人に見せるよりも、自分のなかで追求される「道」として積み重ねられるべきものだからで す。
こうしたすべてのことを、上杉鷹山、二宮尊徳の生涯は私たちに教えてくれます。
また、もうひとつ別の角度で仏教の世界観から見ると、現代は「末法」の時代であるゆえとする考え方があります。
(仏教では)釈迦が亡くなってその後の五百年、あるいは千年、その時代を正法の時代といい、この時代は釈迦は亡くなられたけれども、まだそ
の釈迦の生きた姿、その声、釈迦の教え、その時代の教団の生活、そういうものがまだ残っており、生きて伝わっている時代、これが正法。
これが五百年あるいは千年続いた後、像法という時代になる。これが千年続く。像というのは形似であり、そういう釈迦の教えの生きたそのまま
の風がもう亡んでしまって、多分に形式化してきた時代の宗教の在り方です。したがってこの時代には、たとえば佛像であるとか、経典の結集、そ の研究のようなことが主になって、正法時代からいうと、よほど生きた真実が薄れて、多分に形式化してきた。
その果てが末法になる。これはほとんどのお経に一万年続くと書いてある。いやなことですね。正法・像法は五百年ないし千年、末法は一万年
続くのではかなわない。この時はもう釈迦の教えも知識だけになってしまって、その教えの実行、あるいはそれを本当に身体で覚る、証する、体験 することもなくなってしまって、知識だけになってしまい、知識としての教えだけで、行も証もなくなった時代。
こういうふうに時代によって変遷する。その正法が世にあった時は佛教の一階、像法は二階、末法は三階。
そうして「一乗」、これはいうまでもなく佛乗、乗は衆生を導く乗り物の意です。「三乗」といいますと声聞とか縁覚とか菩薩とかいう、誰でも常識的
に知っていること。「二乗」はもっぱら声聞・縁覚の意。声聞というのは教えをただ聞くだけの程度。これがいろいろの縁によってだんだん個人的な 智慧を開くような段階。それが大慈大悲の心に感じて実践を励む段階を菩薩。そして戒・行円満に大成したのが佛である。
この佛教をそういうふうに一乗とか三乗とか区別を立て、戒とか見とかを説き、ある立場から一つの法門を開くのは別法である。他と区別する法、
差別法門である。なるほどそれぞれ真理であっても、それは別真別正法である。法華等の一部一経を首唱し、法華経を信ずれば他の経はみな要 らないとし、あるいは阿弥陀経を信じ、一向至心に弥陀の本願にすがればそれで極楽浄土に往生できるというふうに、一部一経を首唱し、あるい は一佛一土に帰心するのは末法の世には合わない。末法の衆生はそういう限定の下に、「ここへ来い、これを信じろ」と言っても、我見が強く、散 漫で、三毒五濁どうにもならない。たとえその教えがどんなに優れていても、別法ではだめだ。差別法門ではだめだ。
つまりそんな窮屈なことをいっておらず、何でもよいものはみな取り上げて、それぞれ好むところに従って、偏見・差別
観を立てずにいかなかればならない。
末法に位置する現代そのものが、「折衷派」のような立場を必然たらしめるということ。
なかなか私たちがひとつの思想や宗派に徹しきれないのも、末法の世ならではのこと。
文 ・ 星野 上
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