航空機の歴史は、1903年にライト兄弟が飛行機を飛ばしてから1世紀あまりにまりますが、日本がこの歴史のなかに
特別な1ページを刻んでいることを、吉村昭『虹の翼』で知りました。
それはライト兄弟が世界で始めて飛行機を飛ばした1903年よりも12年も前に、まったく独自の研究で飛行機の模型を
作成し、飛ばすことに成功していた日本人がいたことです。
私は幼い頃、歴史写真集のような本で日本で始めて飛行機を飛ばした徳川大尉と日野大尉のことは見た記憶があり
ましたが、外国から購入した飛行機で飛ぶことではなく、まったく独自に飛行機を開発した日本人のことは知りませんで した。吉村昭は小学校時代に教科書の「飛行機の発達」題のところで飛行機と二宮忠八のことが書かれていたと言っ ているので、その名の記憶がある人は意外と多いのかもしれません。
そうです。その日本人の名は二宮忠八。
忠八は幼い頃から凧をあげるのが好きで、十三、四歳の頃から独創的な凧を作って揚げるようになっていたといいま
す。
達磨の目の部分がくるくる回るしかけになっている凧や、今の飛行機からチラシをまくことの先駆けともいえる、凧に
多くのチラシを竹で挟み、簡単な操作でチラシが一斉にはずれ、空からチラシが降ってくる仕掛けのものなど、忠八凧 と呼ばれる独創的な凧をたくさん制作していました。
このような凧の制作の経験もあってか、昔から世界中にレオナルド・ダ・ビンチに限らず、鳥のように人間が翼をつけ
て大空を飛ぶことは、多くの人が夢見ていましたが、忠八は、まったく独自に、鳥、昆虫、飛魚などの飛ぶ状態を熱心 に研究し、羽ばたくことによってではなく、翼の揚力によって空を飛ぶことに注目して研究を重ねていきました。
そして、とうとう今では模型飛行機ではお馴染みの、ゴム動力のプロペラ飛行機を完成させ見事に飛ばすことができ
たのです。
忠八は、この実用化にむけて、当時、日清戦争がはじまった時の軍部に図面資料を提出してはたらきかけますが、
軍部はただの夢物語として一蹴して、とうとうとりあってもらえずに終わってしまいます。
しかし、それでもあきらめきれない忠八は独自に、製薬会社の取締役にまでなった経済力で研究開発を続けます。
ところが、そうこうしているうちに、明治41年、忠八の目に
「過日ライト兄弟の一人ウイルバー・ライト氏が其二氏に成れる飛行機により、殆ど1時間鳥の如く自在に飛翔し得た
る事」という新聞記事を目にし愕然とする。
欧米では、飛行機熱がさかんで、多額の資金と多くの人の協力で、だれが最初に飛行機を完成するかを競い合って
いて、懸賞金も出され、政府も支援を惜しまなかった。
それに比べて忠八は周囲から変人扱いされ、人目を避けて独力で研究を進めなければならなかった。
この無念さはいかばかりかと思うのですが、意外と淡白な性格の忠八はあっさりと飛行機の研究を放棄して、実業に
専念しています。
このあたりが『虹の翼』の著者吉村昭の筆致ともよくマッチして、感情描写に深入りすることなく、時代とともに見事に
えがかれています。
この航空の歴史のスタートとともに、当然、航空事故の歴史もはじまることになるのですが、二宮忠八は、その後、航
空事故がある度に犠牲者の死を悼み、遂には飛行機神社を独力で建て、自ら神官の資格まで得て霊を慰めたので す。
その飛行機神社は京都府八幡市にあり、祀られた霊は、十四万二千余の多きにのぼっているといいます。
本書の後日談がまたすばらしいのですが、やがて日本でも軍用機の開発が競われる時代に入っていき、その時代の
航空業界の重鎮として名を馳せていた長岡外史中将が、とりもなおさず忠八の上申書を却下した当人であることをや がて忠八の文書で知らされます。
長岡はそれを知り、忠八に長文の手紙をおくり率直に詫びている。
「貴兄の折角の大発明を台無しにしたのは全く小生せある」
「穴にでも入り度き心地」
「貴兄に対して謝罪し、又、大方に向って減刑を請ひ度い」
まさに明治の人とでもいうべきか。
軍の幹部といえども、こうした真摯な姿が胸をうつ。
蛇足かもしれませんが、こうした日本の航空機の歴史や二宮忠八の航空神社を建てた思いからも、日航機123便の
御巣鷹山墜落事故は、その教訓を活かすことや事故原因の徹底究明を、どんな組織や政治の壁にも負けることなく、 何年経ってもあきらめることもなく追求されなければならないものと思います。
『虹の翼』のあらすじに関しては、『歴史の影絵』の「二宮忠八と飛行器」の章を参照させてもらいました。
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