忘れられつつある堀口藍園(らんえん)
藍園に関する資料は、幕末・明治に活躍した歴史上の人物のなかでは、必ずしも少ない方ではありません。渋川市
立北小学校、渋川市立図書館、八幡神社、真光寺、渋川市役所など、個人所蔵品以外でも、市内いたるところで藍園 に関する資料を散見することができます。
しかし、それだけ市内の私たちのまわりに藍園の痕跡がありながら、一般の人が藍園に興味をもっても、その人物像
や業績を実際にしることができる資料は、残念ながらあまりないのが実情です。
渋川市の歴史を語るうえでばかりなく、日本史の近・現代史の教育史上からみても注目されてしかるべき堀口藍園
が、手ごろな資料がないばかりに、近年多くの人びとの記憶から消えかけてしまっていることは残念でなりません。まし てや教育の荒廃や学力低下がさけばれるなか、また総合教育などの新しい試みがスタートした今こそ、藍園の姿をもう 一度ひとりでも多くのひとに知ってもらうことは限りなく意義のあることと確信します。
この問題の手がかりを、私は和辻哲郎の『孔子』(岩波文庫)のなかにみました。
和辻哲郎は世界の四聖人とよばれる釈迦、孔子、ソクラテス、イエスが、どうして多数の聖人賢者のなかで、長い歴
史を乗り越えて今日まで「人類の教師」となりえているのかという分析を、本書の冒頭でおこなっています。
釈迦といえ、孔子といえ、他の二人も、ほんの狭い地域で活動し生涯を終えたに過ぎない。それなのに、どうして、時
代や人種をも超えた「人類の教師」となりえたのか。
我々は孔子が人類の教師として普遍性を得てきたことを理解するために、右の事態を正視することが必要であると考える。孔子は先秦の文化の
結晶として現れながら、それと質を異にする文化のなかに生きてこれを教化し、さらにまたそれと質を異にする唐宋の文化のなかに生きてこれを教 化した。もちろん漢代に理解せられた孔子と宋代に理解せられた孔子とは、同一ではない。また、漢の儒学はその孔子理解を通じて漢の文化をつ くったのであり、宋学もその独特な孔子理解を通じて宋の文化を作ったのである。が、これらの歴史的発展を通じて魯の一夫子孔子は人類の教師 として普遍性を獲得した。この点においては他の人類の教師と異なるところはないのである。
もちろん、いかに藍園といえども、世界の四聖人と同列に論るわけにはいきませんが、優れた教えがいかに時代を超
えて継承されてしくかということの鍵が、ここに語られていると思います。変化する時代のなかで、いかに門人や弟子た ちがその時代に適応し発展させていくかにかかっているといえます。
石燕から藍園にいたる渋川郷学の歴史はいわば同時代の歴史であり、明治以後、特に日本の敗戦後の昭和の歴史
との間にはあきらかに時代の断絶があったといえます。
戦後、民主教育がおこなわれるようになってから、戦前、特に明治期の天皇制につながる考え方や儒教思想は退け
られる傾向にありました。それによって、このテーマ館の別のところでも取り上げている高山彦九郎(参照彦九郎山河) などとともに、歴史の表舞台から消えていった経緯もあります。それが最近になってようやく、保守思想の巻き返しなど もありますが、史実を対等に見直すことができるようになってきたといえます。
それだけに、藍園に代表される渋川郷学の遺産を今日受け継ぎ、いかせるかどうかは、過去の歴史を掘り起こすだ
けでは解決しない、現代の私たちの大きな仕事であるといえます。
また、藍園はよく吉田松陰と比較されることもありますが、いかに藍園といえ松蔭ほどの人物とも思えません。むし
ろ、その価値は、渋川郷学の実学の系譜として渋川・北群馬の地に根付いたことに限りない価値があるものと思いま す。
中島励精著『北毛郷学 堀口藍園 学統と人脈』新人物往来社(1984年9月)絶版は、非売品として刊行されたよう
で、なかなか入手することが難しい本ですが、夢屋書房さんや北群馬渋川郷土館にて手に入れることができます
しかし、様々な資料をみても、藍園にいたる渋川郷学の「人を育てる力」がどのような点にあったのか、今日わたした
ちが受け継ぐものがどこにあるのか、容易に見えてくるものではありません。
むしろ、限られた資料だけからすると、藍園以上に芝渓や足翁のほうが人間的魅力にあふれて面白みはつきないの
ではないかと思われるふしもあります。
まずは、ここに紹介した本がひとりでも多くのひとに読まれるよう願い、このサイトがその一助になればと願うしだいで
す。
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