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立松和平は、足尾銅山関連といい、仏教関連といい、いつも私の問題意識の近くにいてくれる作家です。
そして、今回もそうした期待を裏切ることなく「浅間」というかねてから取り上げたいと思っていたテーマで作品を書き上げてくれました。
本書は刊行後間もなく、NHKのFMラジオドラマ化されたばかりでなく、舞台公演もされました。
以下、本書を手がかりに、天明の浅間山大噴火をふりかえってみましょう。
自分の家が貧しいばかりに、街道沿いの宿場町で飯盛り女(女郎つとめ)の年季奉公を3年間させられることになった
主人公のゆい。
飯盛女についての解説は、宇佐美ミサ子『宿場と飯盛女』(同成社)などがありますが、山内種俊『上州の旧街道いま・昔』(1985)絶版と
いう本に簡潔な説明がありましたので引用させていただきます。
「旅籠屋には'平旅籠’(女を置かない)と、'飯盛旅籠’がある。この飯盛旅籠の"飯盛女”は、公には食売下女で炊事婦。だが黙許の売笑婦で、別
名‘宿場女郎’'飯盛女郎’といわれた。そして宿場の繁栄は、この飯盛旅籠(飯盛女)が握っていたといってよい。上州は街道が発達していた関係 で、多くの飯盛女をかかえていた。(略)弘化二年(1845)木崎宿では総数二百六十人もいたという。」 ![]()
過酷な労働にあけくれる毎日のなかでも、ゆいは先輩から教わったお蚕(こ)さまを育てる技術を昼の間に身につけ、
村にお蚕さまを育てる環境が根づけば自分のような年季奉公をさせられる娘もなくなると、日々、睡魔と闘いながらお 蚕さまの世話に追われる。
「お蚕さまがでて四、五日の間は、室温が暖かすぎても寒すぎてもよくない。北風が吹いて急に温度がさがると、お蚕
さまは何も食べなくなり、消え入るように死んでしまうものだ。お蚕さまは執着がなくて、気に入らないことが少しでもあ れば、自分の命さえあっけなく投げ捨ててしまう。この世にしがみつくことがないからこそ、欲もなくて、汚れのないあん なにも美しい糸を生みだすことができるのだ。
自分の命さえ捨てるのも簡単なお蚕さまであるから、人は自分の身を捨ててもお蚕さまに尽くさなければならない。雲
の行き来をたえず眺め、戸を開けたり締めたりして、お蚕さまに気持ちよく育っていただかなくてはならないのだ。この 手間を惜しむと、お蚕さまの身体に因果応報が現れる。お蚕さまはのちのち病気にかかり、人に報いるかのように命を 捨ててしまう。その時には原因が思い当たらず、人は騒ぎ立てる。
お蚕さまは人を試し、人を育ててくれる。そのためには、人はどんな小さな手間も惜しんではいけない。」
本書の前半部分を通じて、かつて群馬県下であれば、どこでも見ることができたお蚕さまを育てる様子が、実に美しく
(とはいってもとても過酷な労働なのですが)見事に描写されています。 ![]()
立松和平の叙述では、このゆいの飯盛り女の時期と養蚕の話で占められる本書の前半部分だけで、この作品は十
分完成しているかのようにも見えます。
しかし、ゆいが村に帰り、お蚕さまを育てることが少しずつ根付きはじめ、はじめは妬みの混ざった眼差しを向けられ
ることもあったが、ゆいの元に育て方を教わりにくる者の数も増えだし、遠くから「雪よりも白い」と評判の繭を買い付け にくるものも出だしたころ、浅間山が異様な噴煙を噴出し、不気味な小爆発を繰り返しはじめる。
降り積もる灰は衰えることなく、お蚕さまにあげる桑も灰にすっかり埋もれ、馬にあげる草もなくなってしまう。
よその村では早くから避難して村を離れる者もでていたが、なぜか、鎌原村のひとびとは灰ばかりでなく熱く焼けた石
が降るようになってもじっと村にとどまり、浅間山の怒りの静まるのを待っていた。
しかし、運命の天明三年(1783年)旧暦7月8日の昼四ツ半(今でいえば8月8日、午前11時)、
浅間山は大爆発とともに、山頂を焼き破って狂い出た灼熱の火砕流が、山腹の土砂・岩石を巻き込みながら巨大な熱
泥流となって、北麓の村々を襲い、利根川上流の吾妻川に鉄砲水を起こして、死者・行方不明実に二千人と称される、 日本火山災害史未曽有の大惨事をもたらした。
この大噴火の鳴動は「まず西は京、大阪辺、北は佐渡ケ島、東えぞがしま松前、南は八丈、みやけじままでひびき渡り、物淋しき有様なり」
(大笹・無量院住職の手記)
金沢でも「御城下緒山鳴動し、誠に天よりただ今にも大石等降り申すべきや」(浅間焼記録)
店に来た高校の先生に、この本の話をしたとき、天明三年、1783年はヒトナヤミと覚えるんだと教えてくれました。
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山頂から出た熱泥流は三方向に流れ出たが、中央(今の鬼押出し方向)の流れがもっとも強く、そのスピードは、秒
速100メートルとも200メートルとも言われる。
* この熱泥流のスピードについては、様々な説があるようですが、昭和48年の浅間山噴火時に発生した小規模な熱泥流を撮影した映画フィル
ムの分析などから、秒速約35メートル(時速約120キロ)程度と推定されています。
また、「熱泥流」という表現が、熱いドロドロとした流れのような印象をもたれがちですが、発掘調査の結果やアメリカのセントへレンズ火山噴火
時の類似現象から、水気のない乾いた灰と土砂、岩石の流体であったことがわかりました。
この想像を遥かに超えた速度が、足腰の弱いものはより近場の高台に避難することで生きながらえることができたの
に対し、足腰の強い者ほど遠くの安全な場所を目指して走ったばかりに、熱泥流にのまれてしまう結果をもたらしてしま ったとも言われる。 ![]()
立松和平『浅間』のなかで、主人公ゆいがこの石段を駆け上るとき、後からいっしょにお蚕さまを育てた仲間の娘が姑を背負いながら必死に登ろ
うとしてゆいに助けを求めて手をのばすが、一瞬、ゆいが手を引いたかの間に、ふたりは熱泥流にのまれてしまう、というシーンがあります。
のちの発掘調査でこの石段の最下段から、老いた女性を背負った若い女性の遺骨が出てきたことがそのままモデルになっていることがわかりま
す。
一瞬のうちに、鎌原村の約500名の村民と150頭ほどの馬が死亡し、助かったのは他出者と観音堂に駆け上がった93名のみであった。
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これまで火山学などの自然科学、文献資料による人文科学、村落構造などにおく社会科学などの専門分野ごとに分断されていた研究を、はじ
めて統合するプロジェクトが編成されて、発掘調査を含めた大がかりな調査研究をまとめた本です。 ![]()
【余談】 ここの観音堂も昔の趣きが残った素敵なお堂だと思いましたが、よくあるお寺とは独立した観音堂や地蔵堂などは、江戸時代の仏教の
檀家制度が確立する以前に建立されたものが多いようです。その多くが、お寺とは別に、地元の農民などが浄財を出し合って建てたものらしく、宗 派仏教寺院以上に地元の篤い信仰心に支えられていたものが多いようです。 ![]() ![]() ![]()
「鎌原村から渋川までおよそ40キロ。
山腹の原野を下り、吾妻川を押し流れて来てもなお、熱泥流を形成した溶岩は灼熱の光と熱を放っていたわけだ。鎌
原村が襲われたのが午前11時ごろ。熱泥流は渋川まで1時間で下っている。時速40キロのスピードだ。さらに渋川から 百五十キロ下流の金町(江戸)には26時間で着いている。」 (『嬬恋・日本のポンペイ』 より)
近藤義雄・大島史郎共著 『北群馬 渋川史帖 史帖シリーズ10』 みやま文庫154(1999/06)に、現渋川市北
部に位置する川島村の被害の様子がまとめられています。
(元になっている資料は、矢島袢氏執筆の『北群馬・渋川の歴史』、『群馬県史』資料編など)
鎌原村からは遥か下流に位置しているにもかかわらず、川島村では113人の尊い命が失われた記録が残されていま
す。
浅間山焼に付見分覚書(抜粋)
原田清右衛門御代官所
同国同郡 川島村
高六百八拾六石余
内四百八拾六石余 泥砂火石入荒
人別七百六拾八人
内百拾三人 流死
家数百六拾八軒
内百二拾七件 流失
馬百壱疋
内二拾八疋 流失
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立松和平の『浅間』の刊行と時を同じくして発売された、浅間大噴火についての手ごろな研究書。
浅間山麓の村の噴火後の復興政策についての調査がまとめられているほか、周辺大名、旗本のとりくみなどについてもまとめられています。
鎌原村の復興についてはよくイタリアのポンペイと比較されます。
ポンペイが村の20%あまりの損失にもかかわらず、その地を離れ他所に移住しているのに比べ、鎌原村は村人の
85%を失っていながら、他所へ移住することを拒み、同じ場所で復興をはかっています。
大噴火から三ヶ月あまり経た、天明3年10月24日、廃墟に建った仮普請家に、7組の花嫁花婿がならんで、集団結婚
式が行なわれた。
それは、夫を失った妻と、妻を失った夫が、子を失った親と親を失った子がいっしょになり、新しい家族を形成するも
のでした。
幕府の意を受けて、近隣の有力者たちは、生存者93人の中から、それぞれ好適と思われる新夫婦の組み合わせを考え、百日忌を済ませたば
かりのこの日、その第一陣7組の“再婚式”を挙げさせたのである。
有力者とは大笹村の長左衛門、干俣村の小兵衛、大戸村の安左衛門の3人。実はこの3人は鎌原村の救済に当たって献身的な努力を振るった
中心人物。たとえ、胸の内はどうであろうとも、指名を受けた花嫁花婿候補たちは、首を横に振るわけにはいかなかったことであろう。 (「嬬恋・日本のポンペイ」より)
このあたりの気持ちが立松和平の『浅間』で、主人公のゆいが、同じ村内であるから顔はよく知っているが、口を利い
たこともないある男と結ばれる過程の気持ちがうまく描かれています。
男もゆいに対して
「すまねえ。」と
この現代では考えられない一見強引な方法が、村の再興にどれだけプラスに作用したかを、二百年以上後の現代で
起きた、阪神淡路大震災の後の共同仮設住宅の人びとの実態と比較してつくづく考えさせられました。
手元に新しい資料がないので、最近の実態を正確に知りませんが、野田正彰の『背後にある思考』(みすす書房)
のなかで以下のような指摘があります。
「阪神大震災から6年目の1月17日がくる。家族を喪った遺族にとっては七周忌。6447人が亡くなった。その後、仮
設住宅でも多くの人びとが不幸な死に至った。95年3月から99年1月末まで、仮設住宅での自殺と孤独死した人の数 は237人になった。99年より震災復興住宅へ移ったが、そこでも自殺と孤独死は続いている。昨年は42人を数え た。」
阪神大震災後のボランティアたちの活躍には、不幸な出来事のなかにもかすかな明るい光をみる思いがしましたが、
他方、こうした数字をみると、はたして歴史は前に進んでいるのだろうかと疑いたくもなります。
わかりきったことのようでありながら再三思い知らされるのですが、本というものは、読んでみないとその内容はわからないもの。
石月正広著 『鬼押 天明・浅間三童子』は、このページ作成時に掲載していながら、3人の少年を主人公にしながら鎌原村の復興を描いた
作品という認識だけで、実際に読んでみるまでこれほど貴重な作品とは思っていませんでした。
三童子の設定は小説の核心構造をなすフィクションですが、歴史舞台は史実をよくベースにしており、風俗描写もなかなか面白いものがありまし
た。
資料をもとにした記述で鎌原村が、他所の地と違って恵まれていたふたつの条件をもっていたことが人見村との比較で詳しく書かれています。ひ
とつは、貨幣経済が発達した村であること、もうひとつは、鎌原村が藩領ではなく天領であったことです。
飢饉という現実を目前に逃れてきた老婆の言葉を借りて、次のようなくだりがあります。
人見村は吉井藩の領地に属し、村高が976石、戸数76戸、人別が297人、年貢は天領や旗本領と同じく、四領六
民とされていた。
山焼けで村が埋没する以前の鎌原村の村高が332石、戸数93戸、人別が597人。一見この数字だけを見比べる
と、人見村の方が、鎌原村よりも裕福な村であるかのような錯覚を起こす。村高というものは、一村ごとの生産性を米 の生産高である石高であらわしたものであり、村の規模を問題にする場合は、面積ではなく村高が基準にされるのが 通例だからだ。
976石から四分を年貢として領主に納めると、その残りはおよそ585石。それを人別の数で割ると、だいたい一人頭
が1石という計算になる。
それに比べて鎌原村は、一人頭が0、33石で、人見村の丁度三分の一だ。
ところがこれは、両村が共に専業農家である場合にのみ成り立つ単純な比較で、鎌原村は旅籠屋が軒を並べた宿
場村であり、中馬稼ぎや馬喰稼ぎや、飯盛り女たちも数多くいた。人見村が自給的農業であるのび対し、鎌原村は貨 幣経済の浸透した村であった。
しかも鎌原村は天領で、領主の厳しい監視の目もない。蕎麦などは隠田であり、村高32石の作柄のうちに入っては
いない。特産物の明礬も、年貢とは無関係である。それに浅間山北麓にある大森林は幕府の御留山で、そこの管理を するという名目のもとに、茸や山菜や木の実は採り放題、旅人が旅籠屋に落としていった金や、中馬や馬喰が稼いだ 金にも年貢は一切かからない。そのうえ脇街道の宿場村であるから、助郷という負担もないのだ。この助郷御伝馬役と いうのは、「天下農民のうち、生を助郷村に受くる者ほど不幸なる人民は、他にあらざるべし」といわれたほどのもので ある。
気象学者や火山学者の指摘によると、天明の浅間山大爆発は、日本史上、未曽有の凶荒となった天明の大飢饉の
引き金役を果たした。
この大飢饉は前後七年にわたって続き、寛政の改革へとつながっていく。
「農作物の凶作は、大爆発の前年、天明二年から始まっていた。この年、奥州各地では四月を過ぎてなお冷雨が降り続き、土用を迎えても依
然、寒い風が吹き止まなかった。田では実を結ばない稲の立ち枯れが続出し、東北の諸藩では四分作に終わるところが多かったという。
翌天明三年も同様だった。春から夏にかけてしとしとと雨が降り続いたところに、浅間山の大噴火が追い討ちをかけたのである。火山灰は関東
一円の田畑に降り積もり、農作物に壊滅的な打撃を与えた。
降灰による直接的な被害ばかりではない。上空に噴き上げられた微粒子の灰じんが太陽光線をさえぎって日照をさまたげ、さらに降雨量を増幅
させた。」
(「嬬恋・日本のポンペイ」より)
渋川郷学の先駆、吉田芝渓の『開荒須知』のなかには次のような表現が出ていました。
「去ル浅間凶災の後、辰年の春の困窮、又午年の大水にて、未年の春の米穀の高価なる時ハ、世界に穀より貴
きものハなく、民の中に農より利の大なるハなし。」
浅間凶災 天明三年(1783)七月の浅間山大噴火による災害のこと
辰年の春の困窮 天明四年の春から奥羽地方をはじめ関東一帯を襲った天明の大飢饉のこと
午年の大水 天明六年、七月の関東一帯の大洪水のこと
未年の春の米穀の高値 天明七年の米価の異常な高騰のこと
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新井房夫 編 『火山灰考古学』(古今書院)は、火山灰の性質を、群馬で数々の成果をあげた発掘調査などに
よる考古学的調査結果を含めて、とてもわかりやすく説明くれています。
この本は、タイトルに群馬という言葉が入っていないばかりに、単なるその分野の専門家だけの本のようにとられがちですが、浅間山、榛名山、
草津白根山、赤城山などの群馬の火山の性質を知る上で、また、火山灰にうもれた考古学発掘調査にかんする基礎的知識を得るうえで、とても 頼りになる1冊です。
「日本でもっとも有名なのは浅間山の噴火が天明の大飢饉をもたらしたことであろう。天明の噴火のために群馬県下で死んだ人は約1400人であっ
たのに比べて、東北地方を中心とする地域で飢饉のために餓死、病死、逃亡した人は人口の3分の1にも及んだ。実際には浅間山の噴火に先立 ってこの年(1783年)の6月からアイスランドのラキ火山が大噴火をおこし(浅間山天明噴火の30倍もの噴出物をもたらし)、世界的な寒冷化が進ん でいたところに7〜8月の浅間山が追い打ちをかけたのである。」
こうした火山の大爆発が地球的規模で気象の変化をもたらしたことが、後のフランス革命まで(1789年)影響を与えているとみる説もあります。
ところが、その後の歴史気候学の成果などにより、当時のヨーロッパに天候異常を招いたのは、浅間山噴火ではなく、同年に噴火したアイスラン
ドのラキ山の影響が決定的であることがわかりました。
「上州の火山を眺めると、浅間山のように最近でもときどき大規模な軽石噴火を繰り返す火山や、草津白根山のように小規模な水蒸気爆発をた
びたびくり返す火山、そして榛名山のように長い休止期間をおいて大規模な活動をくり返す火山など、さまざまなタイプの火山が認められる。また 赤城山のように、縄文時代以降ほとんど活動をおこしていないものもある。しかし、活動を停止してしまったという保証はどこにもない。」
日頃、あたりまえの風景として眺めている上州の山々も、長い歴史とともに息づいているのをあらためて知ると、山を見ているだけでも胸がワクワ
クしてきます。 ![]() ![]() ![]() ![]()
この須藤雅美さんの本は、以前『上野万葉地名の考察』(参照ページ 万葉植物と東歌関連ブックリスト)という本を知ったとき、とても関心させら
れたのですが、専業農家を営んでいる方ながら、現代という視点から、いかに先人の貴重な記録を読み今日に活かすかという気迫に満ち溢れ、要 点を実にうまくまとめあげてくれています。
この本の紹介だけであらたに1ページ設けたいくらいですが、とりあえず、編集後記から以下の文を紹介します。
「昭和45年秋、彦兵衛の墓を発見し、今迄の調査資料、伝承、史話、民話等が事実として確認出来、現存する浅間山焼大変記をみる事によって、
下人見村の97ケの地名が21に減少していった過程、元禄を最高とする仏教文化(精神文化)が消滅したいきさつ、歴史的空間がこれによって描 かれていた。
資料を昭和47年4月20日、人見高野谷戸、佐藤正氏より借り、即日コピーし、翌日返済、以後一ヶ月で解読、ノートに写し、更に読下し、脱字、
誤字、当字を補正し編集始める。その間各郡志、特に関係ある吉井町上神保、金沢寛氏宅の同時代に書かれたのをよく比較してみた。
尚これに類した資料は各地にみられるが、そのほとんどが後に写本として書いたものが多く、その体験者の自筆は少ない。尚この体験記録より
残る教訓、村の再編、天明の遺跡、彦兵衛を育てた教育文化を参考にかかげたが一読のうちに、何か一つでも心の糧、多く参考になれば幸せで ある。」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
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