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山の本というのは、深田久弥や串田孫一などの広く知れ渡った作家のものを除いて、いかに刊行時の評価が高い本といえども、数千部の刷り
部数を越えるものはそう多くありません。
したがって、細く長く売れるもの以外はどうしても早々に品切れや絶版の運命をたどらざるをえないのが実情です。
それだけに古本屋さんのなかでも、山の本のコーナーは、一定度のファンとともにまとまったコーナーを作っているお店も少なくありません。
ルート案内の本などは、古くなれば当然価値が無くなってしまいますが、一般的な自然エッセイの読み物よりも、時には生死を賭けた人間の姿
や、人間のスケールなどとても及ばない自然の脅威を描いた山の本には、長く読みつがれて欲しい名著がたくさんあります。
ここでは、なんとか群馬に関連した本だけでも、普通の書店ではお目にかかれなくなった本を含めて、少しでも多くのひとにご紹介し続けることが
できたらと思い、いくつかのテーマではじめてました。 ![]() いかにも信仰登山の山らしい山容をもち、尾根で涼んでいようものなら、天狗あらわれたかと思うような風がたちまち吹き抜けていく。コース変化 に富んでいるばかりでなく、登山口からの高度差は百名山のなかでもトップクラスであることもあまり知られていない。個人的には群馬ナンバーワ ンの山である。著者はあらゆる沢コース、山スキールート、縦走コース踏破してこの本をまとめている。 なんとしても欲しい本のひとつ。図書館でのみ見ることができます。 また、この山は山岳修験の山としても知られますが、すぐ隣の迦葉山とは独立した信仰を集めている。 (関連ページ山伏と修験道) ![]() ものが多い。 本書後半部分は「足尾山塊の歴史と自然」と題する章で登山史、地質、動植物、足尾町史跡散歩など周辺の歴史、環境を幅広く解説していま す。 なかでも庚申山の登山史は、他に資料があまりないだけに貴重なものになっており、主に三度の歴史的重要な契機を紹介しています。 その第一は、勝道上人(天平七〔735〕年下野国生れ)による開山で、上人は、765年から翌年にかけて男体山に登ることを念願したが果たせ ず、同年庚申山に猿田彦の神霊を奉祀したと伝えられる。勝道上人はのち、妙義、赤城、榛名、武尊山など関東一円の山々で厳しい山岳修験を つみ、上州の山々の開山に大きな足跡を残している。 第二の契機は、江戸中期、かの有名な滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』によるもので、「赤岩庚申山」という項に犬村大角という人物が登場する。 大角は下野郡赤岩村の郷士一角武遠の一子ということになっているが、じつは一角は庚申山に住んでい神通力を得た化猫に食い殺され、一角に 化けた化猫に息子の大角は17年間も仕えてきた。ここに犬飼現八が八犬士の仲間を求めて通りかかり、一角を妖怪と見破って退治し、犬村大角 と巡り会うという筋書きである。 またこの頃、庶民の間に庚申講が盛んになったことも、庚申山の信仰登山を隆盛にした契機となった。 「庚申とは十干の庚と十二支の申が結びついた60年に1回廻ってくる年や日のことをいう。三戸説という中国の道教の思想があり、人間の体内に 三戸という虫がいて、庚申の日の夜毎に人が眠っている間に、その虫が天に昇ってその人の罪過を報告し、天帝はそれを聞いてその人の死を早 める、という。この教えを守り長生きを願うというのが庚申信仰で、守庚申といって、日待、月待など、色々な形で行なわれるものらしい。」 第三の契機は明治時代の悲劇的な事件によるもので、大忍坊と雲井竜雄の「政府大官暗殺未遂」である。 「大忍坊は元常陸の郷士であったが、訳あって日光山・輪王寺の僧となり、後、足尾郷赤倉・竜蔵寺の住持となって庚申山に籠って断食行を行 なっていたが、たまたま旅先で米沢の藩士雲井竜雄と知り合って政局を談じ、意気投合して明治新政府打倒を企てる。庚申山の社務所で密議を こらし、全国の同志を総決起させる秘策を練ったが、事前に疑われて捕えられ、雲井はさらし首、大忍坊他10名は斬首刑となったという。このため 庚申山へ登る人が急激に減り、以後信仰登山はほとんど影をひそめてしまったという。」 この本は古本屋でもなかなかお目にかかれないお宝本です。著者は群馬県出身ですが、居住している東京からバイクでこの山々や沢に通いつ めて、この貴重な本を仕上げたスゴイ人! 今日、中高年の登山者人口がこれだけ増えても、このような一般登山コースでないガイドブックを出してくれる勇気のある出版社は残念ながらな かなかない。 ![]() ![]() でなく、周辺をふくめたあらゆる歴史、民族まで調査している。百名山ばかりおいかけるより、こうした山の親しみ方にとても共感をおぼえる。 巻末中綴じの参考資料がまたいい。寛政の奇人といわれた儒学者、高山彦九郎の「沢入道能記」をはじめ、大町桂月「関東の山水」、木暮理太 郎「皇海山紀行」、田中新平「袈裟丸連峰縦走」と貴重な記録が抜粋紹介されている。 ![]() この本も幻の本になってしまうのかと思ったら、かなり人気はあたらしく新装版で再版されました。 その奥の深いことでなかなか人を寄せつけない利根源流をつぶさに踏破した案内書。ここで紹介されているルートをだどれる人はそう多くはない かもしれないが、読むだけでもその谷の奥深さに胸躍らせられるものがある。多少なりとも渓流、沢登りなどをする山好きの群馬県人なら、1冊手 元においておくべきでしょう。 ![]() 山の案内書でもありません。読むにつれ、なるほどこれなら生徒にも人気があったであろうと頷ける文章がいたるところ溢れています。 「いまは山に登るだけのために山へ行くのは流行らない。 眺望のいい山に登りたい! これは当然。 富士山が見える山に行きたい! 関東の山では当然。 危険な山は避けたい! 中高年登山者としてこれも当然。 静かな山歩きをしたい! 夏の尾瀬や北アルプスに行きたくないのは当然。 山で美しい花に会いたい! 一輪の花は疲れを癒してくれるのでこれもまた当然。 だが、登山者は登山とは直接関係ない注文までする。 温泉に入りたい。美術館や博物館にも行きたい。 おいしいものが食べた〜い―郷土料理がいい。新鮮な魚を食べたい。四季の果物が欲しい等― 日本風の旅館や民宿に泊まりたい。湖に遊びたい。神社仏閣、史跡をじっくり見てみたい等。 山に関して種々注文をつける。 登山口まで車で行きたい。準備運動を兼ねて三十分ほど歩いてから登りたい。 超低山に遊びたい。一日で二つ、三つの山に登りたい。 テントやバンガローで寝たい。二日、三日と連続して山に登りたい。 クマやヘビに遭いたくない。小鳥のさえずりを聞きたい等など。 なかには理解しがたいことまで言う登山者もいる。曰く「日本一のものに出会いたい」と。 書店や図書館の旅・登山のコーナーをのぞくと、微にいり細を穿つ説明をした案内書がところ狭しと並んでいる。日本人は旅が好きだ。それも事 前に十分な予備知識をもって出かける。だから「案内書と同じだ」で安心し、自分で発見しようとしない。 (中略) 登山者だけが注文が多いのではない。いまの日本人がそうなのだ。望むだけで自分からは行動しない。情報は向こうからやってくるものと勘違 いしている。そして情報という権威には実に弱い。情報過多な輩が優秀だと錯覚している。情報を取捨選択する教育を日本ではしてない。 さて、前述の注文にすべて応えられる山がある。通称「榛名山」だ。 (本書「はじめに」より) 本書の次作『還暦からの日本アルプス山歩』郁朋社(2004/01)も、おすすめ。 2000mにも満たない山でありながら、世界でも最も多く遭難の多発している山のひとつである谷川岳を取材し続けた地元記者の記録。 自衛隊がライフルでザイルを断ち切ることで有名になった衝立岩宙づり事故など、数々の遭難事故を記者として取材し、登山者のモラルの問題 や遭難と安全のために働く人々を長年にわたり見続ける。 絶版でなければ、群馬県の200選に是非入れたいですね。 群馬が生んだ沼田出身の屈指の登山家山田 昇(やまだのぼる)。 最近では世界の高峰に登る最年少記録の更新が相次いでいますが、通常、長期の遠征日数やその経費などを考えると、普通の生活をしている 人がそう簡単にできることではない。山田昇は遠征の度に休職や転職をせざるをえない生活を続けながら、友人からの忠告に悩みながらもその記 録を更新し続けた。 群馬の山岳会の交友関係もこの本で知れて面白い。 他に八木原圀明著「8000メートルの勇者たち ヒマラヤニスト・山田昇とその仲間の足跡」山と渓谷社(1990/04)、「史上最強の登山家 山田 昇」 読売新聞社(1989/09)などがありますが、いずれも品切れ。 山田 昇 ヒマラヤ資料館 ![]() 初の8000m峰の挑戦になるダウラギリT峰。「いつ急に高山病に襲われるか、そこで一歩も動けなくなるんじゃないか。」そんな恐怖にかられ ながら、技術的のも精神的にも、その後のヒマラヤ登山のなかでも最も厳しい経験をする。 やがて、無酸素登頂、冬季登攀などを次々と重ねていくが、冬季アンナプルナ登頂で、6回に及ぶヒマラヤ登山をともにし、「アンペイがいれば、 女房はいらない」とまで山田を言わしめた無二のオパートナー斉藤安平を喪う。 「若いときは、技術を磨き、経験を積めば遭難は避けられると思っていたが、今はそうは思わない。みんな、つまらないところで死んでいった」 植村直己物語の撮影登山や、中国・日本・ネパール三国友好登山隊など多彩な活動を、持ち前のずば抜けた体力と明るさでこなす山田昇の姿 が、豊富な写真と解説で余すところなく知ることができる。 最強の登山家としての証しは、トータル獲得標高の数字ばかりではない。あれだけ登っている人間でありながら、手の指も、足の指もただの一 本も凍傷で切ったことはない。また、乳酸値105.8という検査数値は一流のクライマーのなかでも、ずば抜けてすぐれた体力を持っていたことを証明 している。 どの写真をみても、誰の山田昇についての文を読んでも、彼の明るさ、たくましさがあふれ出ている。 ![]() ![]() 山田らを待つBCの佐藤ですら、強風吹き荒れるテント内の生活がいかに恐ろしいものであるかが、この記録からうかがい知ることができる。 飛行機で三人の遺体らしきものを発見してからも、なかなか悪天候に阻まれ収容作業はすすまない。飛行機やヘリのフライトのための気象条件 と、地上の人間の登山のために必要な気象条件は異なる。 多くの人々が、長い日数をかけて、山田隊の捜索と遺体収容に携わった。 山田昇だから、これだけの支援が寄せられたのかもしれないが、団体で延べ142件、個人で延べ1740件にのぼる支援金(約3千万円)と、現地 部隊をはじめ大勢の無償の労働支援の記録は、他に例がないのではないかと思われるほどの規模である。 マッキンリーという極めて異質な山を知るために、日本のアルピニズムの歴史を知るためにも貴重な一冊である。 ![]() ![]() 群馬の山ガイドにとって決定的な1冊が出ました。 著者はもともと、これまで上毛新聞社から『群馬の山歩き130選』『野山を歩く100コース』などの刊行に携わってこられた群馬中高年山岳会元 会長です。 ひとつの県のなかから300山もリストアップすると、日頃見えているすぐそこの今まで名もしらなかった山まで、ほとんど網羅されています。 一番最初に紹介されているのが、このサイトの御巣鷹山慰霊登山のなかで自分のたどったコースがはっきりしていなかった高天ガ原山だったの で、ひときわ感激してしまいました。 ![]() ![]()
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《情報募集しています》
吉村昭の「高熱隋道」という小説のなかで、「ホウ(泡)雪崩」といわれる雪崩のことがでています。(厳密には、「ホウ」
は雪崩の一種とは言い難い現象)
狭い渓谷の谷間に、上から雪崩が落ちると、谷底の空気が圧縮され空気爆発のような
現象がおきるというのです。そして、その爆風は、谷底では逃げる方向が限定されるので、ひとつの方向に集中し、頑
丈な建物をまるごと数百メートルも吹き飛ばすほどの凄まじいものになるといいます。
この小説のなかでは、昭和初期のまだ日本が戦争を行っている時代に、黒部ダムの一連の建設現場でおきた「ホ
ウ」による事故が見事に描かれています。
それは1938年、富山県黒部之合谷で起きた泡雪崩のことで、4階建て鉄筋コンクリート製の宿舎を600メートルも先に
飛ばしたという記録です。
その後、雪崩関係の本を見るたびに、この「ホウ(泡)雪崩」についての詳しい説明がないかとめくってみるのですが、
この信じがたい現象を詳しく解説した本は未だにみつけていません。
インターネットで検索してみても、吉村昭の本についてか、1938年の事故に関するもの以外はでてきません。
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どなたか、この「ホウ」に関する資料、ご存知の方がいらしたら教えて下さい。
連絡先メールアドレス hosinoue@hotmail.com
2003年11月、三重県鈴鹿市のOさんから、メールをいただきました。
今では入手できない本ですが、『にっぽん建設業物語』(講談社)のなかに、泡雪崩に関する記述があることを教えていただきました。
せっかく貴重な情報いただきながら、メールの返信が、こちらの問題によるのかエラーになってしまい連絡ができないので、申しわけありません
が、この場をおかりしてお礼させていただきます。
また、2004年10月に、メールにてMさんより、菊地俊郎著『北アルプスこの百年』(文春新書)のなかに、平成14年におきた槍沢の泡雪崩につ
いての記述があることを教えていただきました。 ![]()
みなさんから、このようなキーワード検索だけではなかなかみつからない情報をいただき、とてもうれしく思います。
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