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第二テーマ館 群馬の山と渓谷
西暦2050年の近未来ストーリー
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当人は至ってマジメなのだが、ちょっとバカなお話におつきあい願いたい。
時は、西暦2050年の話である。
はなしのあらまし
日本は、20年かけて「平成不況」からようやく抜け出すことができたが、高度経済成長の再現はなく、2010年代から
30年代にかけて、ゆるやかな成長でなんとか安定期にたどりつくことができた。
2030年代になると、これまで考えられなかったバイオ、ナノ・テクノロジーが一斉に開花しだし、同時に先端技術が
専門の科学者たちから大衆化の方向にどっと流れ出して、小資本の個人事業で可能な新しい産業や商品が、続々と 生まれるようになってきた。
政治の面では、2017年の少前研一郎(すこしまえけんいちろう)内閣の時代に道州制が施行され、地方自治の基礎
がようやく確立される。
2025年には自衛隊が一旦解散し、地方自治体ごとの民兵制度に重点がおかれた軍隊に改編される。
民兵の機構は、かつての自衛隊を発展させたというよりも、消防団を組織的に整備発展させたものといったほうがわ
かりやすいかもしれない。
消防団に最新兵器と情報システムを持たせ、地域ごとの独立性を極力確保しながらも、大災害時のみ、表現は悪い
が「大本営」のような緊急対策本部が必ずその現場に設置され、あらゆる指揮権がそこに集中するようになっている。
常備軍は道州兵が3に対し、国防兵1の比率なるが、国連軍への参加比率は大幅に増えることになった。
ただし、国連も常任理事国や大国の拒否権はすべて廃止されており、政治、宗教、民族問題に対して、国連軍が実
際に軍事介入することはほとんどなくなっている。
そのような時代の流れのなかで、世界がもっとも頭を悩ませているのは、国家や宗教や民族、はたまたイデオロギー
の対立ではなく、「個人テロ」とでもいうべき恐怖のことである。
つまり、専門技術や知識の大衆化が急速に進んだことにより、それまでの国家や民族、宗教やイデオロギーの枠で
は考えられない独自な発想が、個人レベルで、世界中いたるところで生まれ、更にそれがどんなものであれ、一個人が 実現しようと思えば物理的にも一国をも動かしかねないような力をもってしまっているということである。
誤解を恐れず言えば、世界中至るところで第二のイエスキリストやお釈迦様があらわれ、同時にそれぞれが、予測し
がたい先端技術を持っているということである。
もう一つ、この新たな時代の危機の背景にあるのが、かつてのグローバル・スタンダードに対する反動としての世界
の細分化、多様化の進行である。
地方自治も進化していくと、地理的な境界による行政単位にこだわる理由がだんだん無くなり、価値観を共有するも
の同士のコミュニティーとしての自治体が現われるようになる。
より小さなコニュニティの意義については、
当サイト内 「正林堂 第1テーマ館 根源から「お金」を問う」の
アワニー原則、サスティナブル・コミュニティのこと をご参照ください
ある町では、義務教育を完全廃止して、こども自身が思いっきり遊ぶ環境を保障してやることこそ社会の役割である
と、「遊び天国」を設立する。
もちろん、子ども自身が算数、国語を勉強したいと言ってきたら、その町の先生は、バカなことを考えるな、子どもに
は、そんなことよりも遊ぶことのほうがどんなに大事かということを、一生懸命説明する。
それでも言うことを聞かない救いがたいバカな子どもは、よその町に転校していく。
しかしこの町では、密かに算数や国語を勉強する子どもがあとを絶たないのが最大の悩みとか。
またある町では、日本の美しさは江戸時代にこそある、と宣言し、すべての機構から習慣まで江戸時代の姿になら
う。この町の中だけでは士農工商の身分差別は、憲法違反にならない。奉行所に届けでて認められれば「敵討ち」も存 在する。
この他にも、同性愛の町、野生生活の町、サッカーしかスポーツを認めない町
・・・などなど
上州(旧群馬県)の例では、月夜野町において、月を愛でる街づくりが徹底され、全国的な流れに先駆け旧暦(太陰
暦)を公用の暦として採用していた。月夜野町役場では公用書類が旧暦で記載されていないと受理されない。町では元 号(和暦)とも異なる独自の干支に基づいた年暦を制定し、町内でむやみに西暦や元号で全国共通の表記をすると罰 金が科せられる。
このような勝手な自治体が可能になったのも、中央連邦政府が個人の自由と人権の保護に対する整合性を、絶えず
膨大な事例収集と可能な限りのシュミレーション作業をコンピューター上で、ある程度のヒューマンファクターを加味して 行えるようになったからである。
しかし、人間のすることは、いかなる科学的予想をも遥かに超える!というのが現代の課題である。
こうした歴史状況の上で起きたのが、ここで紹介する2050年の「足尾はどう考えたって上州(旧群馬県)だろう!の
乱」である。
主人公は、上州武尊山の仙人と称する山野天心。推定93歳。
天心は、かつてから下野(旧栃木県)に属する足尾町は、どう考えても上州(旧群馬県)の領土ではないかと半世紀ほ
ど前から主張し、各界に働きかける運動を続けていたが、行政、中央連邦政府に一貫して相手にされず、やむなく、3 0名ほどの同志をつのって足尾銅山坑道跡に立てこもり、下野国民兵を相手にゲリラ戦を始める。
中央連邦政府は、ようやく復元した足尾銅山跡の緑地化の破壊を危惧して早期事態の解決をはかるが、天心側ゲリ
ラは妥協案を一切受け入れない。
上州側も、天心の言う趣旨はわかるが、上毛カルタの「鶴舞うかたちの群馬県」のかたちが変わってしまうのは困ると
の理由で、天心の行動を支援することは議会で否決してしまう。
かくして、2050年より足尾町を巡る上州と下野国の領土戦争が始まるのであるが、この小さな乱が、のちのち一世
紀以上にわたり歴史学者ばかりか、心理学者、社会学者、経済学者、哲学者を含めて議論され続ける歴史的意味を もつようになるとは、天心自身も予想はしていなかった。
それは人類の理性が初めて、誰がどう考えても自明の理、つまり、足尾町はどう考えても上州(旧群馬県)だろう!を
否定する論理を見出せない、という危機に直面した事件であるからである。
未来の地方自治のありかたばかりでなく、人類の「理性」を問う重大な問題?!であるので、以下、十分時間をかけ
て、このお話を進めていきたい。
どうか皆さん!もう一度地図を見てみてください。
どう考えても足尾は群馬でしょう!
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足尾から鹿沼へは、対向車がきたら譲り合わなければならないような山道を越えて行かなければならない。
足尾町から峠までは高度差500m近くもあり、カーブの標識の数は50近くもある。
しかし、緑の回廊をくぐりぬけていく景色は最高で、この気分を味わえれば多少の不便も苦にならないかもしれな い。
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なんて当初意気込んでいたのですが、最近、全国で自治体区分を越えた行政統合の話が相次いでおこり、足尾町が
群馬に入ることは、まだ話こそありませんが、そう難しいはなしではなくなってきました。急にこのテーマの魅力が色あ せてきてしまったような気がして、方針変更せざるをえないような感じになってしまいました。
でも、誤解をおそれずにあえていえば、ここでの真の目標は、足尾町への群馬への統合などではなく、足尾町の自然
の理にかなった自治の復権を目指すものです。
その意味で、足尾が、栃木県というのはどう考えてもおかしいのではないでしょうか、ということを繰り返し問うもので
す。
過疎に悩む山村の復権については「上野村」が教えてくれることでも触れましたが、お金(財政力)が無いから、まわり
の力のある自治体と一緒になろうといった平成の大合併の発想とはは根本的に違う、本来の「自治」という言葉の復権 を目指すものです。
たしかに足尾町のような山奥で、基幹産業も無くなってしまったところの独立した地方自治はとても困難なことかもし
れません。
しかし、これほど廃れた町でありながら、このホームページに限らずこの小さなこの町に関するサイトがたくさん開設さ
れて、多くの人びとが様々な興味関心で、写真を撮りに来たり、緑を復活させる事業に参加したり、歴史の発掘調査を したり、いまなお昔を偲んで遠方から訪ねてくる人の絶えない町が他にあるでしょうか。
まだ歴史の整理がされていませんが、嘘偽りなく世界遺産にも匹敵する大変な財産を足尾の地は持っているのだと
思います。
世界に発信できる「緑地復活」の経験をもつ町、公害から立ち直った町、歴史遺産を保存して語り伝える町としての
可能性のこれからを考えたら胸がワクワクしてきます。
こんなに面白い話はないと思うので、なんとか書き続けたいと思います。
かくして、多くの群馬県人が
「どう考えたって足尾は群馬だろう!の乱」に参加されんことを、
そして、多くの栃木県人が、この挑戦を受けて立たれんことを
・・・・・・・願うのです。
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