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足尾銅山のなかでも小滝坑の歴史とその史跡から偲ばれる姿には、独特の魅力があります。
それは、今日までつながるこの小滝の地で育った人びとの独特の団結観がもたらすものが大きいようにも思えます。
しかし、そればかりでなく、現代からふり返ればあまりにも短い小滝坑の歴史のなかに、当時の最先端の産業の隆盛 を誇った華々しい姿と、過酷な鉱夫たちの「よろけ」に至り短い生涯をたどる労働や、中国人強制連行に代表される悲 しい歴史の両面が凝縮されていることが、多くの人びとの足をこの地に運んでいるのだろうと思います。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
浴槽は大きな楕円形で、外側と内側の二重になっており、その内側がまた二つに分かれていました。
内側は上がり湯で、一つは熱い湯、もう一つは温めになっていて、他に薬湯がありました。洗場で汚れた体を洗って入る人は、ほとんどいず、そ
の上タンパンで染まった手を、浴槽の中で軽石でこすり落とすので、どんなに澄んだ湯でも、すぐ牛乳を入れたように真っ白になってしまう。坑内の 汚れは、石鹸くらいでは落ちないシツコイよごれですからね。しかし坑内人にとって、この時間はもっとも楽しいときです。切羽での作業のきびしさ、 長屋での出来事などの情報交換の場であり、どの顔も明るい顔でした。また各人が入浴する場所は何となく定まっていましたから、話ははずみま した。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
このレンガと石垣に囲まれたなかに火薬庫の建物があった
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「昭和19年10月、河北省石家荘俘虜収容所から八路軍および国民党正規兵175名、労働者82名、計257名の中国人俘虜が日本政府の手によ
って強制連行された。彼らは17歳〜59歳までのもので、足尾へたどり着いたときは一部の歩けないものはタンカで運んだほどで、顔は土色、手足 はむくみ、どうしてこんな人たちを無理に連れてきたのだろうと、思わず涙がこぼれたといわれる。このため入山後三ヶ月たった昭和20年1月まで に98名が栄養失調や消化器障害のために、バタバタと死んでいった。・・・・・・この中国人俘虜は小滝坑で働かされ、十数名がさく岩作業、その他 のものも構内の作業についた・・・・・・」
足尾銅山労働組合発行『足尾銅山労働運動史』(1958/06)絶版 より
八木沢柏一さんが、当時小学生だったころの銀山住宅の様子を次のように語っています。
私が小滝小学校に入ったのは、昭和13年。その頃は製材所に勤める家庭の子供たちと一緒に学校へ通いました。製材所閉鎖後は船石からく
る何人かの友達だけになってしまいましたが、朝鮮の人たちが住むようになってからは、また賑やかま銀山にもどりました。
根元という、二つか三つ年上の朝鮮人の子がいました。日本語が上手に話せないので、1年下のクラスでした。その当時、朝鮮は日本に占領さ
れていて、朝鮮人と言わないで「半島人」と言わされ、自分の本当の名前を使うことさえ禁止されて、日本人くさい名前にかえさせられていたので す。
安という人は安東さん、玉という人は玉村さんなどという具合でしたが、そんなことにお構いなく子供たちは仲良く遊んでいました。
私の仲良しの根本君は、跳び箱や鉄棒の体操の時間はライバル。私を応援する子もいれば、根本君を応援する子もいて、大変な盛り上がりよう
でした。根本君は、今朝鮮で元気にしているでしょうか。
先生は、日本語の下手な子には授業が終わってからも丁寧に教えていました。その子は私たちより年上でしたが、みんなが親切にしていました
ね。
銀山に朝鮮人は何人ぐらい住んでいたか覚えていませんが、社宅には、家族持ちが14〜15世帯。寮には70〜80人の人がいたのではないで
しょうか。
これらの人たちは、日本に働き場所を求めて来た人もいたようですが、多くは強制的に連れられてきたようです。ですから、厳しい労働に耐えか
ね、寮を脱走する人もいました。これを防ぐために、奥銀山の私の家には、会社の人が夜は二人も常駐していました。
巡査の派出所もありました。それに庚申山道には、細い針金が張られ、逃げる人が通る時には針金に触れると、その先に付いている鐘が鳴るよ
うになっていました。
鐘が鳴ると監視人が飛び出し、先回りして、捕まえたのです。
捕まると罪の軽い人は、水を入れた盥(たらい)を頭の上で支えさせられるのです。脱走に失敗した人は家の柱に縛りつけられ、棒で殴られたり
しました。
『町民がつづる足尾の百年 第2部』より
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こうした当時植民地下にあった朝鮮人よりも、敵国であった中国人への待遇ははるかに過酷なものだったようです。
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