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かみつけの国 本のテーマ館
 第三テーマ館 日航123便「御巣鷹の尾根」墜落事故   

御巣鷹山慰霊登山(私記)
(2006/09 加筆)

 
 やっと御巣鷹山慰霊登山にいってくることができました。

 実は、私は過去2回ほど上野村までいきながら、天候と予想外の残雪などの理由で2回とも挫折しています。安易に
挫折したといって帰れるのも、地元群馬の気安さのなせるわざで、東京や関西から慰霊登山にこられた方々は、多少
天候が悪くてもきっと無理して登られているのでしょう。(でも、九州からはるばる来て、天候のため引き返している遺族
もいるのを「おすたかれくいえむ」8・12連絡会編で知りました。)

 それというのも、上野村はなんといっても、どこから来るにしても、ひたすら遠いからです。

 大阪から来る遺族の苦労を、池田知加恵さんはこう語っています。
 「大阪から御巣鷹に行くのに、宿泊代と交通費に一人最低85000円ほどかかる。特に、最寄りの駅である高崎駅や
秩父駅から登山口までは、便がないため、どうしてもタクシーを利用せねばならない。その往復タクシー代金およそ四
万円が頭の痛い金額で、慰霊とはいえ、今後遺族に重くのしかかりそうである。」 (池田知加恵著「雪解けの尾根」ほ
おずき書籍

 なんとかしてあげられないものだろうか。私は一人で自分の車を運転しながら、夜明け前の長い道のりを群馬の北の
外れから走り続けてきたが、全道中往復にかかる費用はガソリン代が精々2〜3000円程度であろう。
 

 また、上野村をさらに遠く感じさせている要因に、道路事情の悪さがある。今でこそ舗装化が進み路肩のガードレー
ルも整備されてきたものの、日本の山間部でこれほどカーブが連続して長い距離を登り続ける国道は他に例をしらな
い。
 「墜落遺体」の著者で知られる飯塚訓(いいづかさとし)さんの「かんくさん物語」(あさを社)という短編小説集のなか
で、万場町に赴任した駐在の最も多い仕事は、泥棒などの事件ではなく、転落事故の検死であり、多い月は、十件もあ
ったという話がある。道路の片側(谷)はほとんどが30から50メートルの崖になっている。道幅はどこも狭く、落ちたら
7割くらいは即死、ほとんど助からなかったという。


 日本中至るところに過疎に悩む山間部は存在するが、意外と道路事情は、観光のための道路が整備されていたり、
高速道路や幹線道路が近くを突き抜けていたりしている。過疎化しているとはいえ、万場町、中里村、上野村といくつも
集落人口をひかえていながら、鉄道もなくこのように山道の延々続くところはそうないのではなかろうか。
 それにしても、上野村は遠い。


 今日は、鬼石町から先の細い山道(国道462)を、夜明け前にもかかわらず、東京ナンバーの車が随分走っている。
まさか平日なのに御巣鷹へ行く人がこんなにいるのだろうかと思ったら、ほとんどが、御巣鷹周辺で最近行われている
ダムやトンネル工事の関係の車でした。
 今、上野村から御巣鷹口にかけてのダムやトンネル工事は、夜中も煌々とライトを照らしながら行われている。

 以前、初めて御巣鷹登山口まで来たとき、鬼石町から上野村に至る国道462号線に比べて、国道からそれて御巣
鷹登山口に至る林道の、なんとも広くりっぱなことに驚かされた。日航はまさかこんな林道整備までお金を出してくれて
いるのかと思ったら、東電のダム工事がらみの道路整備のようでした。
 後で知ったのですが、どこまでがどこの経費でつくられているのかはわかりませんが、「おすたかれくいえむ」8・12
連絡会編のなかに

   村予算おおかたつかいても
      その道路造るという上野村の人らよ

 という歌がありました。


 朝6時頃、ようやく登山口駐車場につく。

 現登山口駐車場から先へ、さらに新しい道路の工事が進められている。
 御巣鷹登山口から上流にかけての砂防ダムの計画が進められているらしい。工事の案内掲示板に描かれたイワナ
の絵が、実に白々しい。

 現在、登山口から事故現場までの道のりは、年配の方で1時間程度、健脚な壮年なら30分足らずでつく。新しい道路
が更に上まで伸びて、お年寄りでも慰霊が容易くできるようになるのは良いことだろうが、ほんとうに必要な道路なのだ
ろうか。無駄な砂防ダムをつくる口実にすぎないように見えてならない。

 沢に沿って登山道を登る。
 橋といい、急な坂の手すりといい、上野村や日航の人々の努力で実によく整備されている。
 沢にかかる橋も木ならばやがて朽ちるときがくるだろうが、見事に太い鉄骨を敷いたりっぱな橋に作りかえられてい
る。

 見返り峠は意外と早くたどりつく。峠というにはあまりに小さなピークの起伏に過ぎないが、名前をつけるとしたら、や
はり峠となるのだろう。

 急になってきた登山道を一気に登りつめると、じきにプレハブの小屋が見えてくる。2棟の休憩所兼管理事務所とトイ
レの建物である。
 途中いたるところにある水場の設置にも関心させられるが、登山口とここのトイレの管理は日常で大変な作業であろ
うと思う。大勢訪れる慰霊登山者にどれほどありがたがれていることか。

 間もなく、山小屋の見えた正面の急斜面は、既に墓標の立ち並ぶ墜落現場であった。




 立ち並ぶ墓標。

 520人という数が実感となって伝わってくる。
 2歳、4歳といった幼い子どもの墓標ばかりが、なぜか目に入る。
 こんなに子どもが大勢いただろうか。

 備えられた花がまだ新しい。
 昨日(日曜日)に訪れた人も、何人かいたのだろう。

 鐘をひとつついて、手を合わせる。
 誰もいない山に響き渡る。
 遺族に対して自分が何をしてやれるわけでもない。
 ただこの場にじっと立ち尽くすのみ。
 この場に少しでも長くいてあげることだけしかできない。

 「無念の涙」
 十年、二十年で乾くようなものではない。

 残された人々もまだまだ、遠い日の出来事にはならない。
 このような事故で一家の柱を失った家族。
 最愛の子どもを亡くしてしまった親。
 会社が倒産に追い込まれてしまった人。
 老親のみが残り、生きる糧を失ってしまった老夫婦。
 ここに来たくても来れない人々もたくさんいる。

 まだまだ大切な課題がたくさん残っている。
 早くこころ安らかにと願うが、生きるための厳しい闘いを強いられている人々の中には、
 今だに「無念の涙」の乾く間もない人もいる。

 やはり、私は今日来てよかったと思った。




 実際に現場に立ってみると、これまで本の写真で見ていた印象とはだいぶ違っていた。
 尾根を境にして、スゲノ沢側は山の反対側にあたるような印象をもっていたが、思っていたよりひとつのつながりとな
っていた。そして想像よりはるかに、衝突時の機体は、まさに「激突」といった角度でぶつかっていたことがうかがわれ
た。

 これまでの私の知識は、上空からの写真や数々の関連書の文章から得たものであったが、その印象からすると、遺
体が広範囲にわたって散らばったこと、機体後部がスゲノ沢方面に滑り落ちたことなどが印象に残っていた。ところが、
広範囲といっても、そもそもの機体の大きさ、激突時の速度から考えたら、私には、はるかに遺体は一箇所に集中して
いるように思えた。

 どんなに最後は減速していたとはいえ、時速数百キロ。ジャンボの巨体からすれば、少しでも墜落時に進入角度がつ
いていれば、もっと広範囲に遺体や残骸は散乱していたのではないだろうか。これは、ほとんど直角に近い角度で、山
の斜面に激突していたことが窺われる。




 まだ時間が早いので、余裕をもって県境の尾根まで登って、三国山方面まで足をのばしてみようと思う。

 今回は是非とも、神々が集うといわれる高天原に立ってみたいと思って来たのである。それともうひとつは、この山域
が、杉山隆男著「兵士に聞け」新潮社のなかで、自衛隊のレンジャー訓練域になっていることが指摘されており、それ
がどんなものかできる限り徘徊してみたかったのである。同書は、「戦うことを禁止された軍隊」である自衛隊の現場兵
士がどのような矛盾をかかえて日々の活動を行っているのか詳細に取材した力作。
 御巣鷹周辺は、自衛隊の訓練域で地形は熟知しているはずなにに、なぜ、墜落事故当日、夜のうちのヘリによる降
下ができなかったのかと指摘している人もいる。

 また、米軍関係の仕事の経験のある人は、朝鮮戦争当時、御巣鷹山方面は基地に着陸できない戦闘機のエスケー
プルートであったという人もいる。


 まずは、あの山頂を目指して登る。



 落ち葉で埋まってわかりにくい、かすかな踏み跡をたしかめつつ、まっすぐに登っていく。

 今日は、沢すじに入ることもあるかもしれないと思い、履物は林業用の地下足袋(裏にスパイクがついているもの)に
渓流用のスパッツを用意して来てみた。ベトナムズボンにこのスタイルは、私の山登りの一番お気に入りのスタイル
だ。登山靴よりも、トレッキングシューズよりも、機動力ある山歩きができる。

 ただ、この林業用地下足袋には、苦い思い出がある。
 もう5年以上前になるだろうか。皇海山から錫ヶ岳方面へかけての足尾山塊を、4泊5日の単独行で楽しんできたとき
のこと。その時は、お盆休みの真っ最中であるにもかかわらず、皇海山を過ぎてからは3日間、出会うのは鹿ばかり、
人間にはまったく会うことも無く、沢登りに、尾根の縦走に単独行の山歩きとしては、これまでで最高に自然に打ち解け
た気分を満喫できるすばらしい山行であった。

 ところが、最終日、ほぼすべての行程を終えて下山し、あとは林道を車を置いてきたところまで歩くのみ、という時の
こと。継ぎはぎでコピーしてきた2万5千分の1の地形図のこの林道の部分が、2枚のコピーの継ぎ目部分でつながっ
ておらず、林道をただ歩っていくだけで良いには違いないのだが、はたしてどのくらいあるのか地図で確認できないの
である。この林道に出るまでの山間部の地図は、縦走中のエスケープルートも含め様々なコースを想定していたのだ
が、この林道のことは一本道であり、迷う心配はないと丁寧にコピーすることをしていなかった。まったく今更ながら、自
分の性格がよくわかる。下山して林道にたどりつたのは夕方6時。すでにあたりはだんだん暗くなりかけているが、まあ
2,3時間も歩くことはないだろう程度に考えていた。

 歩き出して1時間ほどであたりが暗くなったので、ヘッドライトを取り出してつけた。さすがにリチウム電池はすごいな、
と前回の寒ーい八ヶ岳のテント泊のときから今回の5泊分もってくれている寿命と軽量小型化された性能に関心しなが
ら歩いていた。だが、間もなく1時間もたった頃だろうか、ヘッドライトはふーっと暗くなり、さすがのリチウム電池も尽き
てしまった。あいにく月も出ていないので辺りは完全な真っ暗闇になってしまった。それでも、迷う心配の無い林道をひ
たすら歩くだけでよいのだから、焦らずにただ歩けば良いと自分に言い聞かせる。


 ところが、月明りもない完全な真っ暗闇だと、十分な広さのある林道ですら、時々踏み外し、遥か下方に沢の流れの
音のする谷側に落っこちそうになる。加えて足元の岩の出っ張りに気づかず、つま先を思いきりぶつけてしまうことしば
しば。

 ふつうの登山靴を履いていれば、こんな岩の出っ張りに足をぶつけたくらいどうということないのだが、こういうときに
限ってつま先の柔らかい地下足袋。地下足袋といっても裏にスパイクのついた、少し硬めにゴムの貼ってあるものなの
だが、やはり岩にあたればつま先にガツンと響く。何度もガツンと同じことを繰り返すので、できるだけ気をつけて座頭
市のように足を真上から下ろすように心がけていたが、疲れのせいか、やはりガツンと繰り返す。
 考えてみれば、4日間歩きとうしてきたうえ、今日は既に10時間以上歩いている。何時間も暗闇を歩いていると、この
沢、このカーブはさっき通ったところと同じではないかと思える景色が何度もあらわれる。荷物は、食料の類はもうほと
んど食べて軽くなっているはずなのだが、とても重く感じられる。こんなときは、山歩きに最高の酒がなかったら楽しくな
いと、五合瓶にこだわって担いできたことが悔やまれる。

 時間とともに増すばかりの痛みをこらえて、ようやく車にたどりついたのは、夜も11時すぎであった。
 林道を5時間も歩いた?あの2枚の地図の継ぎ目の間に、何キロの道のりがあったというのだ!

 やがて痛む足の爪は、それから2〜3週間ほどかけて、小指も含めて左右の足の爪10枚全部剥がれた。
 とっても痛々しい姿で、直るのに半年以上かかったような気がするが、反面、男の勲章を得たような、なにか満足感
のあるケガでもあった。

 そんなことを思い出したが、これはなにも地下足袋に欠点があるのではなく、私の計画性の無い山行が問題であるこ
とはいうまでもない。
 利用者は少ないが、林業用地下足袋は、沢登などを複合した2000m未満の山登りでは最強の履物であることを強
調しておきたい。



 で、話を戻すと、小一時間ほどで、尾根にたどり着く
 見晴らしの良い岩の上で一服し、三国峠方面へ向かう。




 尾根筋の縦走になったら、比較的道もはっきりしており、所々ロープもわたしてある。
 ただし、このような山の縦走は、安易には立ち入らないようにされたい。3000m級のアルプスを登りなれた体力に自
身のある人でも、ちょっとガスでもかかってきたり、尾根を見失うとすぐに道に迷いやすいので、本格登山の様相は無く
ても、決して容易いものではない。

 今回、こんなに快晴に恵まれ視界の十分にきいた条件でありながら、私は帰りの尾根をひとつ間違えそうになった。
 ただ、この地域で幸いにありがたいのは、群馬と長野の県境ではっきりと樹相が分かれていることである。様々な樹
種が自然に入り乱れている群馬県側に対して、長野県側はきれいに、カラマツの単一林になっている。したがって、尾
根筋を歩いているときはカラマツ林の切れ目を意識していれば尾根を間違えることがない。

 123便の墜落現場も、カラマツ林であったが、群馬県に比べて長野県はカラマツの植林を徹底して行ったことを何か
で読んだ記憶がある。カラマツは成長が早いので重宝されたようであるが、スギやカラマツに偏重した日本の林政はこ
れから改めていかなければならない。

補足
 私は、群馬から長野県側にはいるといつもカラマツ林やシラカバ林のなんとなく明るい林が多い印象をもっていたので、長野県のカラマツ植林の
徹底ぶりの記述をみてやはりそうであったかと納得したのですが、かといって群馬県がカラマツの植林をひかえていたかというとまったくそんな実
態ではないことを後に宮下正次さんの本で知りました。
「水源県」といわれる群馬県ですが、国有林のなかで保水力の少ないカラマツの占める比率は5割近くにも及ぶとのこと。とても長野県のことをと
やかく言えた立場ではありませんでした。                2006年加筆

 
宮下正次著 『炭は地球を救う』 リベルタ出版


 なんどか小ピークを越えていくと、パッと視界の開けたところに出た。

 私はその景色を見て「えっ!」と驚いた。

 それは、眼下にすぐ、長野県側の村の田畑が広がっているのである。、遠く八ヶ岳までの視界も一気に広がってい
る。
 この御巣鷹の地に群馬県側からくるには、田畑もないような狭い谷合を延々と辿ってこなければならない。その距離
のなんと長いことか。
 それに比べ長野県側からは、尾根一つ隔てた山陰に墜落現場が位置するとはいうものの、田畑広がる集落からすぐ
のところに、この御巣鷹がある。
 


 これなら、墜落時、長野県側からの目撃証言がもう少したくさんあってよさそうなものとも思えるが、南東から進入して
きたことが、やはり長野側から見えにくいことになっていたのだろうか。
 同時にこれでは墜落直後、墜落現場は長野県側との情報が流れ、家族を乗せたバスが、長野県側に回ってしまった
ことも、あながち無理からぬこととも思えた。


 私は、抜けるような秋の青空があまりにも気持ちよかったので、その場に寝転がって虫の動きや、今日も遥か上空を
飛んでいく飛行機雲の流れを見ながら、しばらくそのままで過ごしていた。

 寝転がった顔の横を、小さなバッタが跳ねていく。時々止まって羽をこすり合わせるようにして鳴くのだが、羽のすれ
る音ばかりでまったく音になっていない。まだ子どもなのか。

 いや、バッタはよーく見ていると大人のバッタもまるで子どもだ。われこそはバッタなりとばかりに思いっきりジャンプし
てみせるのはよいが、跳ねた先の着地のことはまったく考えていない。大きいバッタも小さいバッタも、跳ねたあとは、
次の草むらのなかにひっくり返るように転げ落ち、一度としてきれいな着地など見せない。次はどこに着地しようかと
か、どのように降りようとかまったく考えているふしがない。
 「あー、オレと同じだ。」


 さっきからぶざまな着地を繰り返すバッタが、だんだん遠くの方へいったかと思うと、その着地先にあった木の枝がヘ
ビのように見え、一瞬ギクリとした。

 ヘビといえば、先日うちの母親が大騒ぎをして私を呼びに来て、今、庭をでっかいヘビが横切っているから早く何とか
してくれという。何とかしてくれと言われても、そんなのほっとけばどこかに去っていくだろうと相手にしない素振りをした
が、母親の顔は尋常ではなかった。

 仕方なく庭に出てみると、ほんとに1m以上もあるでっかいのが、今まさに庭を横切っているところだった。やむを得
ず、近くの竹箒を拾って、その柄の部分でヘビの頭を思いっきりねじりつぶすように押し込んだ。今でもそのときのゴム
をつぶすような感触がのこっているが、ヘビはそれではびくともしなかった。いったん引き下がると頭をもたげて、何を
するんだとばかりこちらをカーッと威嚇してきた。しかし、その後は攻撃してくるでもなく、また向きを変えて、元の方向に
進んでいった。

 この時のことは当分忘れられそうにない。

 ヘビからしてみたら、ただ庭を横切っただけで何も悪いことをしたわけでもないのに、いきなり母親と私の主観で「おま
えは気持ち悪い!」と決め付けられ、しかもそんな理由だけでその命すら否定しようとされる。
 なぜかあのヘビが、遠い昔のどこかのきれいなお姫様の生まれ変わりだったような気がしてきて、とっても悪いことを
してしまったような思いが残っている。

 そんなことをぼーと考えてながら、真っ青な空を眺めていたら、あっという間に2時間もその場で過ごしてしまった。大
好きなチョコボールもザックのなかで融けてしまった。
 
 ところで、ここまでひたすら歩いてきたが、神々のつどうという高天原はどこだったんだろう?三国山の山頂はここで
いいのか?

 ま、そんなことはあとで地図をみてゆっくり確かめることにしよう。

 まだ、2時間くらいは回り道して行く時間の余裕がある。

 帰りは、生存者の発見されたスゲノ沢の方の墓標をまわって帰ることにする。


                                      2001年10月15日(月)
                                         文 ・ 星野 上



後に、このコースを紹介した格好のガイド本が出ました

  

横田昭二 著
「私が登った群馬300山」 上・下
上毛新聞社(2005/07) 各巻定価 本体1,600円+税



追記

 2006年9月、5年ぶりに御巣鷹の尾根に登ってきました。

 今回は、上野村フェスティバルの木工展をわが心の師匠、摺本好作さんと見にきたついでに、ここまできたら御巣鷹
の尾根まで行かない手はないと、なかば強引に摺本さんをつれてきてしまいました。

 摺本さんとは最近、なにかにつけて上野村内山 節さん、黒沢元村長の話をする機会が増えていたので、この際
道中の車のなかでじっくり話がしたいと思ってこちらからもお願いして同行させてもらいました。
 天候や摺本さんの体調を覗いつつも、せっかく上野村にきて御巣鷹に足を伸ばさないのではきっと後悔が残るだろう
と、内心迷いつつも結局なんだかんだ話をしながら登山口まで車を乗り付けてしまい、白々しくも

「どうしますか?登ってみますか?」と。

 幸い登山道は、昔より林道がさらに延びて、従来の半分の距離まで短縮されており、これなら大丈夫かと・・・・。

 こちらは昔より随分楽になったと思っても、まったく山に登ることなど予定していなかったひとをいきなりつれて登るの
には、やはり無理もあったかもしれません。

 私からすればそんなこと、あの山の急斜面一帯に並ぶ墓標を見れば・・・・迷いはきっと吹っ飛ぶことだろうと思って歩
き出したのですが、いざ登ってみるとどうも様子がなんとなく違いました。


 いざ休憩小屋のある尾根口にたどりついて墓標の立ち並ぶはずの斜面を登りだしても、以前とはなにか様子が変わ
っていました。

 登っているときは、なんとなく違うなと感じながらも、それがどういうことなのか、慰霊碑のある峰にたどりつくまで自分
でも理解できませんでした。

 ようやく尾根にたどりついてまわりを見渡すと、かつて墓標のまわりに植樹されていた苗木がどれも立派に生育して、
ほとんどまわりの山々の樹林との境界の見分けがつかないほどになっていました。

 すこし間をおいて息もおちつき汗もひいたころ、あらためて周囲を見渡すと、山の斜面はすっかり成長した木々に覆
われ、あの生々しい墜落現場がどこであったのか一望できるようなところはまったくなく、それは本で見た記憶か、昔こ
こを訪れた時の記憶のなかでしか想像することができなくなっていました。

 さらにかつて斜面一帯に林立していた墓標の数も、20年間、冬に雪が積もるたびに急斜面に押し倒され、毎年、春に
なると復元されることを繰り返していましたが、その数もいつしか減り、今みることのできるのは数えるほどになっていま
した。





 これが、20年という歳月なのかと。



 もちろん、何年経てもあの生々しい墜落現場の姿がもし、そのままであったらいたたまれないもので、きっと早くなんと
かするようにという声があがってくるものと思います。。

 かといって、このように時とともに自然に移り変わった姿から、あの事故の凄まじい光景をいったいどれだけのひとが
想像することができるでしょうか。

 時の流れは確実に多くのひとびとの傷ついた心を癒やし、それぞれの生活を立て直す時間を少しずつ与えてくれたこ
とと思います。
 しかし、いかにあの事故の事実を風化させてはいけないと、心ある人びとが声高に叫んでも、自然の時のながれは、
このような木々の生長のなかだけではなく、人びとのこころのなかにも当然存在します。



 私はこれと同じような思いを足尾を訪れたときにも感じました。
 かつて、足尾銅山経営によって荒廃したこの世の光景とは思えないような赤茶けた山肌の姿。    (参照ページ
重な史跡「足尾」を歩く
 それはこの地球上の光景ではなくて、火星の地表なのではないかとまで思われるようなものでした。
 それが、地元だけでなく各地からあつまるボランティアなどの協力により緑化がすすみ、まだ十分ではありませんが、
すくなくとも、かつての荒廃しきった光景は想像することが難しいほどにまでなりました。



 この足尾の光景や墜落現場としての御巣鷹の尾根のどちらも、自然のもつ偉大な力と人間のなせる大いなる力のあ
らわれなのですが、あのかつての痛ましい現場の姿があったからこその今であるということが、これからの時代の人び
とにどう受け継いでいくことができるのだろうかと考えると、ちょっと不安にかられる思いがしました。


 あらためてその時々の、まさにそこに自分がいるとことの「今」というものが、かけがえのない価値のあるものだとうこ
とを考えさせられる山行でした。





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