第二テーマ館 群馬の山と渓谷
仏教だか神道だかはっきりしない山伏。
ところが、この仏教、神道、道教、自然崇拝ごちゃ混ぜの山伏の姿こそ、もっとも日本的な信仰の姿が現れていると
もいえます。
これまで日本が、急いで近代合理主義を万能の世界観とばかりに思い込み取り入れてきたばかりに、「日本人は合
理性のみを絶対視し、ついには『合理性=新たな宗教』として取り入れてしまったとはいえないだろうか。」と関裕二氏 はいう。
合理主義、科学万能という宗教観を棄て去り、我々がかつての日本人の心を取り戻さねばなるまい。
キリスト教に対するような日本固有の宗教とは・・・・。
「神道」は、戦前の国家神道に対する拒絶反応があって、容易にここに戻ることはできない状況にある。また神道とは何か、という基本的な命題
が、今もって明らかにされていないのも困ったことだ。『言挙げせず(話してはいけない)」というのが神道の原則だから、神道側からの説明はまず ありえない。(それ以前に神道のなんたるかを神職自身がわかっていないようにも思える)。一方の仏教は近世の檀家制度の悪弊によって腐敗し きっているから、まったく頼りにならない。葬式仏教のどこを信仰しろというのか。戒名で人を救うことはできない。
我々はどこに帰ればいいのだろう・・・・。
ここで修験道という忘れ去られた教えに気づかされるのである。
修験道といえば、たいていの人は山伏や天狗を思い浮かべることだろう。また、少しくわしい方なら、修験道は道教・陰陽道の一種であって、純
粋な日本の宗教観ではない、と思われるかもしれない。たしかに、修験道は陰陽道のみならず、仏教・神道など、ありとあらゆる宗教観が混交して いるようにみえるから、これを日本固有の宗教観とみなすことに抵抗があろう。
しかし、それこそ大いなる誤解であり、仮に、縄文以来続いた日本民族の伝統というものがあるとするならば、それは神道にではなく、修験道の
中にこそ見出しうるのである。
いったい、あの猥雑にもみえる修験道のどこに「日本」が隠されているのか−−−。
修験道こそ、八世紀に潰された太古の「真の神道」の残像だったのであり、権力者が勝手に捏造した『日本書紀』の「創作神道」とは別の歩みを
選んだ、日本民族が代々伝承してきた宗教だったのである。
神の座を追い落とされた日本固有の神々が、「神」を名乗れなくなり、天狗や鬼となって反骨の宗教観を形作り、その間、ありとあらゆる宗教観を
取り込むことで呪験力を獲得し、民衆の支持を得ていったのである。
修験道の影響力は、我々の想像を絶していた。鎌倉仏教をはじめ、明治時代に弾圧された新興宗教の多くが修験道の変形であったのだから、
太古の底力あらためて思い知らされる。
(関裕二『闇の修験道』より)
これは言いすぎだと思われる方も多いかと思いますが、異体の知れない修験道というものをこの機会にぜひもう少し
考え直してみてください。
この世とあの世の境界として二上山のもつ特別な意味を、五木寛之や沖浦和光の著作(「幻の漂泊民・サンカ」と「風
の王国」)で知りましたが、葛城山が中国大陸など西(瀬戸内海)からやってくる文明の玄関口にあったこと、蘇我氏と 相互浸透しあう都南西部の勢力を形成していたことの意味を抜きにして語ることはできません。
また空海のおこした真言密教こそ、修験道の源流であるとともに、仏教側からの神仏習合の流れをつくってきたもの
であるともいえます。
この空海の開いた真言密教にあり方こそ、日本の修験道隆盛の秘密を握っているといっても過言ではない。
空海は、没落した「鬼(モノ)」の一族の血を引き、優婆塞となって、吉野や葛城で修行した。その後、新たな仏教の潮流となりつつあった「密教」を
学びに中国大陸に渡った。そして持ち帰った密教の呪術を駆使し、怨霊たちを調伏してみせようと宣伝した。怨霊の恐ろしさに辟易していた平安朝 廷は、藁にもすがる思いで空海を頼ったに違いない。
空海が阿刀氏の血縁で、吉野や葛城から出現した事実を、貴族たちは知っていたのだろう。「鬼」を調伏する者は、「鬼」しかいないと考えて、空
海に助けを求めたのである。
坪内逍遥が55歳のとき(大正2年)に書き下ろした作品(初演は大正15年)ですが、明治の作家がこんなに自由な想像力あふれる戯曲を書いて
いることにおどろかされます。日本の古典的な戯曲でこれほど面白い作品はない!
有名な作品でありながら、上演はけっこう難しい作品らしいですね。
いっそ、現代のコンピューターグラフィックスを駆使したスペクタクル映画にでも仕上げたらさぞ面白そうな作品。
動乱の時代にはなにかと不幸が続くと、これは誰かの祟りとおそれ様々な祈祷にすがる風潮がありますが、そうした
役割は神道や仏教よりも、もっぱら陰陽師や修験道の方が主流であったと思われます。
とりわけ南北朝騒乱の時代、後醍醐天皇を軸に、そうした傾向は顕著にあらわれていたといわれます。
後醍醐天皇のそうした天皇としては異例な特質については、下記の決定的な1冊があります。
しかし、上州の立場から考えると、なによりも源氏再興の期待を一身に受けた新田義貞の周辺でおきた「天狗講」の
ことを思い出さずにはいられません。
榛名山麓の白岩観音で三のつく日を選んで月3回行なわれたという天狗講は、新田義貞も知らない間に全国に広まっていたという。
参加者はすべて山伏姿に身をかえ、天狗の面をかぶり集まってくる。
「この地は久留馬と申します。白岩観音は古くからこの地にあり、近隣六郷は白岩六郷と言って白岩観音堂の領地となっております。元々修験
道の中心的存在であり、榛名山を対象とする、山岳宗教の基地でもあります。全国からこの修験堂に集まる者、引きも切らず、常に百人から二百 人の修験者たちが滞在しております。」
善道坊は白岩観音を指して説明した。
「知らなかった」
と義貞は半ばひとりごとを言った。子供のころこの近くを駆け通ったことはあったが、修験者たちの中心的道場だとは知らなかった。
「今日は遠路はるばる私の天狗講を聞きに参られた諸賢のために、講義に先立って、ひとこと、おことわりを申しておく」
天狗の声は姿に似ず、以外に太く、ぴんと張りがある若い声であった。
「講義の内容はすべて作り話である。従って、その話を聞いて、どのように解釈してもかまわない。それは聞く人それぞれの判断にまかせる。従
ってこの講義では質問は許さない。また質問しなければならないほどむずかしいことはしゃべらぬつもりだ」
天狗はそう前置きしてしゃべりだした。
《昔、昔のことである遠つ国に呉大王という偉い方がいた。呉大王は人民をこよなく愛し、悪を憎み、善を尊び、暮らしよい国を作ろうと努力されて
いた。ところが、その臣下に、将辰という悪者がいた。これが呉大王を王の座から追い落として自らが国王になろうとした。それを知って、呉大王の 腹心の武将、玄伝信は王の命を受け、全国に檄を飛ばして、同志を集めて、挙兵し、将辰のこもっている宋剣城におし寄せ、将辰を殺して、再び呉 大王の治める平和の国を作った》
天狗の話の内容を要約するとこのような物語であった。話し方が上手で、豪傑あり、宮廷の美女あり、大力の僧が出て来るなどまことに楽しい話
であった。
話のやまがそろそろ見え始めたころ、善道坊が、矢立を取って、紙になにかを書いて義貞の手にわたした。その紙片には、
呉大王=後醍醐天皇
呉→呉。天皇→大王。
将辰=北条氏。
条→将。 北→北辰。 北条→条北→将辰。
玄伝信=源新田義貞
玄→源。 新田→田新→伝信。
宋剣=鎌倉
倉→宋。 鎌→剣。 鎌倉→倉鎌→宋剣。
と書いてあった。
天台宗と真言宗は、どちらも平安京の東北と西北の鬼門の山、比叡山と愛宕山にそれぞれ寺を構えていたが、真言宗の愛宕山の天狗には、常
に「弱いもの」を助け権力に反発する、という習性があった。したがって、お上の陰陽師である安倍清明が、愛宕山からやってくる魑魅魍魎から朝 廷を守ったと伝えられる背景には、アウトサイダーたる東密のもう一つの顔が隠されていた。
定価 本体7,718円+税
上州の山々でも、赤城山、榛名山、妙義山、武尊(ほたか)山、迦葉山などが山岳修験道の山として有名ですが、修
験道の痕跡のある山ということでいえば、他にも限りなく存在します。
庚申山のことについては、『足尾山塊の山』の紹介のなかでふれていますのでご参照ください。
山全体が山岳修験道の痕跡を色濃く残しているのはなんといっても、妙義山と迦葉山でしょうが、とりわけ迦葉山は
天狗の山として有名なばかりでなく、高野山、比叡山などとともに「ブッポウソウ」の鳴く限られた神聖な山として知られ ます。
ながい間(昭和になるまで!)、ブッポウソウの鳴き声は、上記の本の表紙にある、翼を広げると青く美しい色をした、こんな美しい鳥が日本にい
たのかと驚かされるような鳥の声と思われていました。
ところが、この鳥の鳴き声は「ギ、ギ、ギ」といった色気の無い声で、それまでブッポウソウと思われていた声の主はコノハズクという梟のものでし
た。
幸いこのトリ違いは、どちらも生息地がほぼ同じであったため、「神聖な山にのみに棲息するブッポウソウ」の名誉は、損なわれることなくすみま
したが、今、生息数が減っている正「ブッポウソウ」の保護が叫ばれています。
光格天皇に書を教えたことや、県内では赤城山鳥居の文字など書家として知られる角田無幻ですが、その家系も育
ちも修験者であることを忘れてはなりません。
当時、世情は徳川治下の泰平になれて、階級的封建制度の安穏な生活をむさぼり、性は怠惰となり進取発展の気性を失って、安易姑息な風潮
がみなぎっていた。
修験山伏の多くが「おがみ屋」と化して、自分の生活の安定ばかりを考えて、宗教家としての良心は殆ど失われてしまった。
この安閑としている現状を慨嘆し修験道本来の姿に復して、衆生化益の悲願達成に燃えたのは、無幻の父、亮観師であった。けれども自分の
力が到達し得ないことを覚って、この悲願を二人の良演と無幻に託すことを決意した。そこで、兄弟に対する訓育や勉学は峻厳を極めたが、二児 は慈父の志を信じて、よく耐え努めた。やがて、兄弟は父の許を離れて和田山極楽院主(バンセイ)師に師事、勉学の傍ら、板鼻宿長伝寺得品禅 師から唯識(儒仏を交えない純粋な知識)を学び、安中藩の儒者からは漢学を修めた。こうして兄弟の卓越した学識は忽ち認められて、塾の代講 となり、同門弟に諸経や諸説の講義をしたり、修験道の根本義を説くなどして、すばらしい進境をみせた。無幻は、十六歳の時、宝暦戌寅(1758) 年1月、勢多郡津久田村の同宗林徳寺角田広観の法 となり、鋭意寺門の興隆に精励すると共に、東江源鱗について書法を学び、後には梢子昴 や王右軍の書風を慕って練磨し、ついに、その妙所に達して一家の書風を大成した。
安永九(1780)年、実父亮観の入寂後、修験道改革の素心は愈々強固となり、天明二(1783)年、大般若講義を命ぜられて京都に上り、住心院
僧正に喝して、修験道の興隆をはかるには、学校を設けて修験者の再教育と子弟の育成が急務であることを奏上した。
帰郷するや、修験道場を村の東境に連なる丘陵の一角、枇杷山の中腹に定め、村人の協力を願い、私財を投じて建築に着手した。これは西の
大峰山や葛城山になぞらえて、聖護院宮法親王を迎え、関東奥羽の一大道場の霊場を企図したものであった。
道場の建設工事が進むと共に、無幻の学識と声咳にふれることを念じて、はるばると遠方から訪れる学者や僧を初め、既に書道で一家をなしてい
る道人の書風を慕って、教えを受ける門弟や筆跡を願うものが続々と集まってくるので、無幻道人の身辺は日増しに多忙を極めた。
天明八(1788)1月、京都大火で皇居二条城が延焼したので、同年二月、光格天皇は聖護院に行幸なされて、内裏が御造営された寛政二(17
90)年11月まで、聖護院仮皇居においでになられた。道人が修験道興学に鋭意心血を注いでいたころ、幕府は、林錦峰・柴野栗山・岡田寒泉に 命じて朱子学を振興し異学を排除させていた。世情は北からロシアが蝦夷地に侵入、南は英船が突如として長崎に入港して、薪水を強要するな どして騒然、幕府の鎖国の長い夢は破れていった。
寛政四(1792)年五月、海国兵談を著した林子平は蟄居となり、翌年三月、老中松平定信が伊豆・相模などの海岸巡
視、同年十二月、伊能忠敬が幕命をおびて急遽、蝦夷地測量に出発した。
時勢の急激な変化に対処すべく、無幻道
人は、寺職を広観の孫、祐観にゆずって知足院と号し修験道興学の勤進に諸国遍歴の旅を決意した。
時は寛政四(1792)年の春で道人は五十歳であった。折りよく、聖護王府の侍読であった京都華王院の(ブツゲイ)の詔請によっ
て上洛、修験道復興の方途に専念した。
その精進が認められて、聖護院宮より「学舎建立之事」の布告が発せら
れ、全国の修験は、もれなく講学所で修験道に励むようになった。
かくして、道人が故郷で企図着手して、実現を果し得なかった宿願の大事業が、京都の地で立派に結実し、兄は準大先達、弟は正大先達(僧
位最高のもの)の栄職を賜って、王公貴人と席を列べ、数百人の門弟を教導していく感激!!心から敬意と祝福をしないではいられない。
この間、道人は京都烏丸の大善院住持となり、庭田大納言の推せんによって、自筆の千字文を
光格天皇と東宮であった仁孝天皇に捧呈する光栄に浴した。また、勅命によって紫野大徳寺の額に健筆を揮ったともいわれる。
以上、須田武雄 著 「角田無幻」 『上毛書家列伝 下』より
天皇に習字の手本を奉呈した書道の大家として角田無幻のことが、4ページにわたって紹介されています。
文 ・ 星野 上
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