サイトの全体構造  本乃枝折(検索リンク) 群馬県・郷土出版案内・リンク集  管理人のブログ  Hoshino Parsons Project


かみつけの国 本のテーマ館
 第二テーマ館 群馬の山と渓谷

山伏と修験道
角田無幻のことにふれて

(2013/09 更新)




 仏教だか神道だかはっきりしない山伏。
 ところが、この仏教、神道、道教、自然崇拝ごちゃ混ぜの山伏の姿こそ、もっとも日本的な信仰の姿が現れていると
もいえます。

 これまで日本が、急いで近代合理主義を万能の世界観とばかりに思い込み取り入れてきたばかりに、「日本人は合
理性のみを絶対視し、ついには『合理性=新たな宗教』として取り入れてしまったとはいえないだろうか。」と関裕二氏
はいう。



   
関 祐二 著 『闇の修験道』
KKベストセラーズ(2000/12)   定価 本体1,400円+税

 合理主義、科学万能という宗教観を棄て去り、我々がかつての日本人の心を取り戻さねばなるまい。
 キリスト教に対するような日本固有の宗教とは・・・・。

 「神道」は、戦前の国家神道に対する拒絶反応があって、容易にここに戻ることはできない状況にある。また神道とは何か、という基本的な命題
が、今もって明らかにされていないのも困ったことだ。『言挙げせず(話してはいけない)」というのが神道の原則だから、神道側からの説明はまず
ありえない。(それ以前に神道のなんたるかを神職自身がわかっていないようにも思える)。一方の仏教は近世の檀家制度の悪弊によって腐敗し
きっているから、まったく頼りにならない。葬式仏教のどこを信仰しろというのか。戒名で人を救うことはできない。

 我々はどこに帰ればいいのだろう・・・・。

 ここで修験道という忘れ去られた教えに気づかされるのである。

 修験道といえば、たいていの人は山伏や天狗を思い浮かべることだろう。また、少しくわしい方なら、修験道は道教・陰陽道の一種であって、純
粋な日本の宗教観ではない、と思われるかもしれない。たしかに、修験道は陰陽道のみならず、仏教・神道など、ありとあらゆる宗教観が混交して
いるようにみえるから、これを日本固有の宗教観とみなすことに抵抗があろう。

 しかし、それこそ大いなる誤解であり、仮に、縄文以来続いた日本民族の伝統というものがあるとするならば、それは神道にではなく、修験道の
中にこそ見出しうるのである。


 いったい、あの猥雑にもみえる修験道のどこに「日本」が隠されているのか−−−。

 修験道こそ、八世紀に潰された太古の「真の神道」の残像だったのであり、権力者が勝手に捏造した『日本書紀』の「創作神道」とは別の歩みを
選んだ、日本民族が代々伝承してきた宗教だったのである。

 神の座を追い落とされた日本固有の神々が、「神」を名乗れなくなり、天狗や鬼となって反骨の宗教観を形作り、その間、ありとあらゆる宗教観を
取り込むことで呪験力を獲得し、民衆の支持を得ていったのである。

 修験道の影響力は、我々の想像を絶していた。鎌倉仏教をはじめ、明治時代に弾圧された新興宗教の多くが修験道の変形であったのだから、
太古の底力あらためて思い知らされる。
                               
                                        (関裕二『闇の修験道』より)


 これは言いすぎだと思われる方も多いかと思いますが、異体の知れない修験道というものをこの機会にぜひもう少し
考え直してみてください。


 

久保田展弘 著  『修験道の世界 始原の生命宇宙』
講談社学術文庫(2005/03) 定価 本体1,050円+税




井賀 孝 著  『山をはしる 1200日間山伏の旅』
亜紀書房(2012/04) 定価 本体2,500円+税



                     
  和歌森太郎 著 『山伏』 宮家 準 著 『山伏−その組織と行動−』
 中央公論新社(1964/08)定価 本体800円+税   評論社(1973/11)定価 本体2,000円+税
                




    
山の宗教 修験道とは何か
角川選書(1991/12)    定価 本体1,200円+税


      
五来 重 著 『山の宗教 修験道講義』 別冊太陽 日本のこころ111
平凡社(2000/10) 定価 本体2,300円+税




山岳宗教史研究叢書(第一期)
1、山岳宗教の成立と展開 和歌森太郎編    2、比叡山と天台仏教の研究 村山修一編
3、高野山と真言密教の研究 五来 重 編   4、吉野・熊野信仰の研究 五来 重 編
5、出羽三山と東北修験の研究 戸川安章編   6、山岳宗教と民間信仰の研究 桜井徳太郎編
山岳宗教史研究叢書(第二期)
1、東北霊山と修験道  2、日光山と関東の修験道  3、富山・御獄と中部霊山
4、白山・立山と北陸修験道  5、近畿霊山と修験道  6、大山・石鎚と西国修験道
7、英彦山と九州の修験道  8、修験道の美術・芸能・文学T 9、修験道の美術・芸能・文学U
10、修験道の伝承文化  11、修験道資料集T(東日本編)  12、修験道資料集U(西日本編)
名著出版
(うれしいことに、オンデマンド出版の普及装丁版でこれらの本は手に入るようになりました。)


鈴木昭英 著   修験道歴史民俗論集
第1巻 修験教団の形成と展開 定価9975円
第2巻 霊山曼荼羅と修験巫俗 定価9975円
第3巻 越後・佐渡の山岳修験 定価12,600円
法蔵館








日本山岳修験学会というところが、
「山岳修験」という専門雑誌を岩田書院から刊行しています。
定価2,500円+税





三重院 火渡り 2012年


修験道を歴史的に考えるには第一に、
役小角と葛城山の関係に始まります。

 この世とあの世の境界として二上山のもつ特別な意味を、五木寛之や沖浦和光の著作(「幻の漂泊民・サンカ」と「風
の王国」)で知りましたが、葛城山が中国大陸など西(瀬戸内海)からやってくる文明の玄関口にあったこと、蘇我氏と
相互浸透しあう都南西部の勢力を形成していたことの意味を抜きにして語ることはできません。

 また空海のおこした真言密教こそ、修験道の源流であるとともに、仏教側からの神仏習合の流れをつくってきたもの
であるともいえます。

 この空海の開いた真言密教にあり方こそ、日本の修験道隆盛の秘密を握っているといっても過言ではない。
 空海は、没落した「鬼(モノ)」の一族の血を引き、優婆塞となって、吉野や葛城で修行した。その後、新たな仏教の潮流となりつつあった「密教」を
学びに中国大陸に渡った。そして持ち帰った密教の呪術を駆使し、怨霊たちを調伏してみせようと宣伝した。怨霊の恐ろしさに辟易していた平安朝
廷は、藁にもすがる思いで空海を頼ったに違いない。

 空海が阿刀氏の血縁で、吉野や葛城から出現した事実を、貴族たちは知っていたのだろう。「鬼」を調伏する者は、「鬼」しかいないと考えて、空
海に助けを求めたのである。

                                    関 祐二 著 『闇の修験道』より





小角は修験道の開祖として山伏に崇められている。この山伏とはそもそも何者であるのか。
どこからやって来て、山に伏すようになったのか。修験道とはいったいどのように成立したのだろうか。
野外で火を燃やすのは修験道だけである。修験道は「火の宗教」である。
山伏はなぜ火を神聖視するのか。小角の謎を解くには、修験道の謎を解かねばならない。

修験道は紀伊半島中央部に位置する大峯山脈で誕生した。奈良県吉野郡である。
サクラで名高い吉野山に蔵王堂があり、山上ヶ岳頂上に大峯山寺がある。ここが修験道の中心部である。
吉野山から山上ヶ岳にかけての山並みを金峯山(きんぷせん)という。
地下には黄金が埋まっているという。修験道とは「黄金信仰」である。
本尊の金剛蔵王権現は黄金の守護神である。

山伏はいったい山中で何をしていたというのか。
コロンブスは金峯山の黄金を探すため、大西洋を西に航海した。
カリブ海の島を日本であると信じ血眼になって黄金を探している。

大海人皇子は吉野で挙兵して天武天皇に即位した。古代最大の内乱である壬申の乱の勃発である。
このとき、吉野には小角が山伏軍団を率いて君臨していた。
果たして、大海人と小角の邂逅はあったのか。
小角軍団は大海人軍の一員として参戦したのかどうか。大海人は吉野に八ヶ月間潜伏した。
しかし『日本書紀』は、大海人が吉野のどこで、何をしていたか語らない。
その空白の八ヶ月間を記す巻物が吉野山の修験道寺院に秘蔵されている。
私は本書の執筆にあたり、その巻物の閲覧を許された。
そこには修験道の誕生に関わる秘密と未知の離宮が記されていた。
『日本書紀』が語らない「もう一つの日本史」である。

吉野にやってきたのは、天武天皇だけではない。
神武天皇は吉野の豪族と会談した後、大和朝廷を開いている。
神武と吉野の豪族を引き合わせたのは小角の先祖に当たる人物である。
後醍醐天皇は山伏軍団を擁して吉野山に南朝を開いた。南朝はここを戦闘基地にして60年も戦う。
持統天皇は生涯に34回も吉野を訪れている。
このとき、小角は吉野で健在であった。歴代天皇はなにゆえ吉野を目指したのか。

小角の魅力は「謎の人物」であることだ。修験道も吉野も謎に満ちている。
忍者のルーツは小角にさかのぼる。安倍清明の陰陽道も小角にたどりつく。
空海は吉野で修行したあと真言宗を開いた。それだけではない。
マジック、サーカス、曲芸、芸能、占い、医術、薬学、果てはごろつき、腕貸し、
博打打ちまで、社会の裏も表も起源は小角か、その辺にたどり着く。

小角の正体を知ることは「日本のカラクリ」を知ることになる。

(本書 はじめに より)  
、((




藤巻一保 著 『役小角読本』
原書房(2001/05)  定価 本体1,575円+税


                               
          銭谷武平 著              夢枕 獏 監修
      『役行者伝記集成』       司馬遼太郎 黒岩重吾 藤巻一保
              東方出版(1994/12)          永井豪 六道彗 志村有弘 坪内逍遥
        定価 本体2,000円+税                    桜桃書房(2000/03)
                                           定価 本体1,800円+税




  
坪内逍遥 著 『役の行者』
岩波文庫(2001復刊)   定価 本体400円+税

 坪内逍遥が55歳のとき(大正2年)に書き下ろした作品(初演は大正15年)ですが、明治の作家がこんなに自由な想像力あふれる戯曲を書いて
いることにおどろかされます。日本の古典的な戯曲でこれほど面白い作品はない!
 有名な作品でありながら、上演はけっこう難しい作品らしいですね。
 いっそ、現代のコンピューターグラフィックスを駆使したスペクタクル映画にでも仕上げたらさぞ面白そうな作品。




第二には、京の都に陰陽師安倍清明が誕生した背景
(祈祷師としての役割と扇動者としての役割)を
知ることが欠かせないテーマであると思います。

陰陽師や安倍清明については詳しいサイトがたくさんあるので、検索してみてください。

 動乱の時代にはなにかと不幸が続くと、これは誰かの祟りとおそれ様々な祈祷にすがる風潮がありますが、そうした
役割は神道や仏教よりも、もっぱら陰陽師や修験道の方が主流であったと思われます。
 とりわけ南北朝騒乱の時代、後醍醐天皇を軸に、そうした傾向は顕著にあらわれていたといわれます。
 後醍醐天皇のそうした天皇としては異例な特質については、下記の決定的な1冊があります。
      

網野善彦 『異形の王権』
平凡社

 しかし、上州の立場から考えると、なによりも源氏再興の期待を一身に受けた新田義貞の周辺でおきた「天狗講」の
ことを思い出さずにはいられません。

 榛名山麓の白岩観音で三のつく日を選んで月3回行なわれたという天狗講は、新田義貞も知らない間に全国に広まっていたという。
 参加者はすべて山伏姿に身をかえ、天狗の面をかぶり集まってくる。

 「この地は久留馬と申します。白岩観音は古くからこの地にあり、近隣六郷は白岩六郷と言って白岩観音堂の領地となっております。元々修験
道の中心的存在であり、榛名山を対象とする、山岳宗教の基地でもあります。全国からこの修験堂に集まる者、引きも切らず、常に百人から二百
人の修験者たちが滞在しております。」
 善道坊は白岩観音を指して説明した。
 「知らなかった」
 と義貞は半ばひとりごとを言った。子供のころこの近くを駆け通ったことはあったが、修験者たちの中心的道場だとは知らなかった。
(略)

 「今日は遠路はるばる私の天狗講を聞きに参られた諸賢のために、講義に先立って、ひとこと、おことわりを申しておく」
 天狗の声は姿に似ず、以外に太く、ぴんと張りがある若い声であった。
 「講義の内容はすべて作り話である。従って、その話を聞いて、どのように解釈してもかまわない。それは聞く人それぞれの判断にまかせる。従
ってこの講義では質問は許さない。また質問しなければならないほどむずかしいことはしゃべらぬつもりだ」
 天狗はそう前置きしてしゃべりだした。
 《昔、昔のことである遠つ国に呉大王という偉い方がいた。呉大王は人民をこよなく愛し、悪を憎み、善を尊び、暮らしよい国を作ろうと努力されて
いた。ところが、その臣下に、将辰という悪者がいた。これが呉大王を王の座から追い落として自らが国王になろうとした。それを知って、呉大王の
腹心の武将、玄伝信は王の命を受け、全国に檄を飛ばして、同志を集めて、挙兵し、将辰のこもっている宋剣城におし寄せ、将辰を殺して、再び呉
大王の治める平和の国を作った》
 天狗の話の内容を要約するとこのような物語であった。話し方が上手で、豪傑あり、宮廷の美女あり、大力の僧が出て来るなどまことに楽しい話
であった。
 話のやまがそろそろ見え始めたころ、善道坊が、矢立を取って、紙になにかを書いて義貞の手にわたした。その紙片には、

   呉大王=後醍醐天皇
       呉→呉。天皇→大王。
   将辰=北条氏。
       条→将。 北→北辰。 北条→条北→将辰。
   玄伝信=源新田義貞
       玄→源。 新田→田新→伝信。
   宋剣=鎌倉
       倉→宋。 鎌→剣。  鎌倉→倉鎌→宋剣。
 と書いてあった。



新田次郎 『新田義貞』
新潮社(ハードカバー、文庫版ともに品切れ) 






沖浦和光 著 『陰陽師の原像 民衆文化の辺界を歩く
岩波書店(2004/10) 定価 本体2,200円+税

本書で論じた陰陽師は、安倍清明に代表されるような朝廷に仕えていた官人陰陽師ではない。
古代からの巫覡の仲間とみなされ、その社会的ポジションも低いとされていた民間陰陽師である。
民間信仰の最前線で、有史以前からのシャーマニズムと新しく渡来してきた
民間道教系の巫術に連なる遊行者として活躍した。
・・・・彼らが産みだした<遊芸の世界>こそ「既成の中心的秩序をゆるがす豊穣な闇であり、
新たな混沌を余示する周縁の世界」ではなかったか−
                                               「あとがき」より


浅江彰夫 著 『神仏習合』
岩波新書




福永光司・千田稔・高橋徹
『日本の道教遺跡を歩く 陰陽道・修験道のルーツもここにあった』
朝日新聞社(2003/10) 定価 本体1,300円+税

天武天皇が向った吉野には、いったい何があったのか?
なぜ桓武天皇は、長岡京にこだわって造都したのか?
出雲・伊勢・宇佐の三大社のなりたちとは?
鎮宅霊符、宵待ち講、鬼やらい、今もつづく習俗のルーツをたどってみえてきたものは?

皇帝のよみがえり、不老不死の宮殿、海のかなたのユートピア・・・・・
隋唐時代の中国で、儒教・仏教以上に広まっていた道教
同じころ実は日本の各地にも伝わり、
占い、まじない、呪いなど日本人の宗教観に深く根付き現代にも影響を及ぼしている。
道教とはどんな教えなのか?いつごろ成立したのか?ほかの宗教との違いは?
(本書内容紹介より)










山伏・修験道の近隣者


この1冊を抜きにして、修験道を語ることはできないですね。

五来重 『高野聖』 角川書店



義経、弁慶、鞍馬山、鞍馬天狗などの説話にいも修験道は根深く生きている



山田宗睦 著  『道の思想史 上・下』
講談社(1975) 絶版

川西政明 著 『鞍馬天狗』
岩波新書 (2003/08)  定価 本体700円+税

 

知切光歳 著 『天狗の研究』
原書房 (2004/08)   定価 本体3,900円+税

比叡山の千日回峰行も天台宗とはいえ、歴史をたどれば山岳修験と不可分の関係
しかし修験道の本流をたどれば、
空海と熊野古道をはじめとする紀州を抜きに考えることはできません。
(紀州・熊野古道は世界遺産に登録されたので、詳しいサイトはたくさんあると思います)

 天台宗と真言宗は、どちらも平安京の東北と西北の鬼門の山、比叡山と愛宕山にそれぞれ寺を構えていたが、真言宗の愛宕山の天狗には、常
に「弱いもの」を助け権力に反発する、という習性があった。したがって、お上の陰陽師である安倍清明が、愛宕山からやってくる魑魅魍魎から朝
廷を守ったと伝えられる背景には、アウトサイダーたる東密のもう一つの顔が隠されていた。
   
                                    関 祐二 著 『闇の修験道』より

かつて円空仏の一大ブームを巻き起こした円空も修験者にかかわる山岳宗教者であった。









自然崇拝・アニミズムの源流


                 
 ネリー・ナウマン著            保坂幸博 著
          野村伸一・檜桧陽一郎訳        『日本の自然崇拝、西洋のアニミズム』
   『山の神』               新評論(2003/03)
    言叢社(1994/10)                   定価 本体3,000円+税
                      定価 本体7,718円+税

 

町田宗鳳 著  『山の霊力 日本人はそこに何を見たか』
講談社選書メチエ261(2003/02) 定価 本体1,500円+税

日本人の「いのち」の源は山にある。
縄文以来、この列島の住人は山の霊力を崇め、山に育まれ生きてきた。
大和の神奈備山から山岳信仰の霊場まで、全国の名山、霊山をめぐり、
世界でも類を見ない日本人のユニークな宗教観の本質を探る。




上州の修験道

 上州の山々でも、赤城山、榛名山、妙義山、武尊(ほたか)山、迦葉山などが山岳修験道の山として有名ですが、修
験道の痕跡のある山ということでいえば、他にも限りなく存在します。

              



 
山岳宗教史研究叢書G 日光山と関東の修験道
宮田 登・宮本袈裟雄 編
名著出版   写真はオンデマンド出版品 定価 本体5,800円+税





群馬には本業、正真正銘の山伏がいます

 修験道の山伏というと、その修行の姿は有名な修行の場の行事などで見ることが出
来ますが、現実にそれを本業として営んでいる山伏は、全国でも数えるほどしかいない
そうです。

 私は、インターネットのあるコミュニティに参加していたら、ひょんなきっかけでその方
(村上圓信さん)の存在を知ることができ、お会いすることができました。



本山修験宗 三重院

 修験道の歴史や組織の現状など、興味深いお話をいろいろお伺いすることが出来ま
したが、圓信さんは、まだ若いばかりでなく、社会のこと、音楽のことなどとても幅広く話
しを交わすことの出来る方なので、つい初対面にもかかわらず長居してしまいました。

 様々な地域活動もされてますので、是非、ホームページものぞいてみてください。

修験道場 六獣庵



修験の滝業、火渡りなどを紹介した貴重な映像DVDです。

本山修験宗 三重院のサイトからお申し込みいただけます






 庚申山のことについては、『足尾山塊の山』の紹介のなかでふれていますのでご参照ください。

 山全体が山岳修験道の痕跡を色濃く残しているのはなんといっても、妙義山と迦葉山でしょうが、とりわけ迦葉山は
天狗の山として有名なばかりでなく、高野山、比叡山などとともに「ブッポウソウ」の鳴く限られた神聖な山として知られ
ます。

 
中村浩志 著 『甦れ、ブッポウソウ』
山と渓谷社(2004/06) 定価 本体1,500円

 ながい間(昭和になるまで!)、ブッポウソウの鳴き声は、上記の本の表紙にある、翼を広げると青く美しい色をした、こんな美しい鳥が日本にい
たのかと驚かされるような鳥の声と思われていました。
 ところが、この鳥の鳴き声は「ギ、ギ、ギ」といった色気の無い声で、それまでブッポウソウと思われていた声の主はコノハズクという梟のものでし
た。

 幸いこのトリ違いは、どちらも生息地がほぼ同じであったため、「神聖な山にのみに棲息するブッポウソウ」の名誉は、損なわれることなくすみま
したが、今、生息数が減っている正「ブッポウソウ」の保護が叫ばれています。









天皇に書を教えた角田無幻

 光格天皇に書を教えたことや、県内では赤城山鳥居の文字など書家として知られる角田無幻ですが、その家系も育
ちも修験者であることを忘れてはなりません。



 当時、世情は徳川治下の泰平になれて、階級的封建制度の安穏な生活をむさぼり、性は怠惰となり進取発展の気性を失って、安易姑息な風潮
がみなぎっていた。
 修験山伏の多くが「おがみ屋」と化して、自分の生活の安定ばかりを考えて、宗教家としての良心は殆ど失われてしまった。
 この安閑としている現状を慨嘆し修験道本来の姿に復して、衆生化益の悲願達成に燃えたのは、無幻の父、亮観師であった。けれども自分の
力が到達し得ないことを覚って、この悲願を二人の良演と無幻に託すことを決意した。そこで、兄弟に対する訓育や勉学は峻厳を極めたが、二児
は慈父の志を信じて、よく耐え努めた。やがて、兄弟は父の許を離れて和田山極楽院主(バンセイ)師に師事、勉学の傍ら、板鼻宿長伝寺得品禅
師から唯識(儒仏を交えない純粋な知識)を学び、安中藩の儒者からは漢学を修めた。こうして兄弟の卓越した学識は忽ち認められて、塾の代講
となり、同門弟に諸経や諸説の講義をしたり、修験道の根本義を説くなどして、すばらしい進境をみせた。無幻は、十六歳の時、宝暦戌寅(1758)
年1月、勢多郡津久田村の同宗林徳寺角田広観の法 となり、鋭意寺門の興隆に精励すると共に、東江源鱗について書法を学び、後には梢子昴
や王右軍の書風を慕って練磨し、ついに、その妙所に達して一家の書風を大成した。



米倉大謙 須田武雄 他『上毛書家列伝 上・下』
みやま文庫(1984)

 安永九(1780)年、実父亮観の入寂後、修験道改革の素心は愈々強固となり、天明二(1783)年、大般若講義を命ぜられて京都に上り、住心院
僧正に喝して、修験道の興隆をはかるには、学校を設けて修験者の再教育と子弟の育成が急務であることを奏上した。

 帰郷するや、修験道場を村の東境に連なる丘陵の一角、枇杷山の中腹に定め、村人の協力を願い、私財を投じて建築に着手した。これは西の
大峰山や葛城山になぞらえて、聖護院宮法親王を迎え、関東奥羽の一大道場の霊場を企図したものであった。

道場の建設工事が進むと共に、無幻の学識と声咳にふれることを念じて、はるばると遠方から訪れる学者や僧を初め、既に書道で一家をなしてい
る道人の書風を慕って、教えを受ける門弟や筆跡を願うものが続々と集まってくるので、無幻道人の身辺は日増しに多忙を極めた。

(略)

 天明八(1788)1月、京都大火で皇居二条城が延焼したので、同年二月、光格天皇は聖護院に行幸なされて、内裏が御造営された寛政二(17
90)年11月まで、聖護院仮皇居においでになられた。道人が修験道興学に鋭意心血を注いでいたころ、幕府は、林錦峰・柴野栗山・岡田寒泉に
命じて朱子学を振興し異学を排除させていた。世情は北からロシアが蝦夷地に侵入、南は英船が突如として長崎に入港して、薪水を強要するな
どして騒然、幕府の鎖国の長い夢は破れていった。
               寛政四(1792)年五月、海国兵談を著した林子平は蟄居となり、翌年三月、老中松平定信が伊豆・相模などの海岸巡
視、同年十二月、伊能忠敬が幕命をおびて急遽、蝦夷地測量に出発した。
                                                              時勢の急激な変化に対処すべく、無幻道
人は、寺職を広観の孫、祐観にゆずって知足院と号し修験道興学の勤進に諸国遍歴の旅を決意した。
           時は寛政四(1792)年の春で道人は五十歳であった。折りよく、聖護王府の侍読であった京都華王院の(ブツゲイ)の詔請によっ
て上洛、修験道復興の方途に専念した。
  その精進が認められて、聖護院宮より「学舎建立之事」の布告が発せら
れ、全国の修験は、もれなく講学所で修験道に励むようになった。

(略)

 かくして、道人が故郷で企図着手して、実現を果し得なかった宿願の大事業が、京都の地で立派に結実し、兄は準大先達、弟は正大先達(僧
位最高のもの)の栄職を賜って、王公貴人と席を列べ、数百人の門弟を教導していく感激!!心から敬意と祝福をしないではいられない。

                             この間、道人は京都烏丸の大善院住持となり、庭田大納言の推せんによって、自筆の千字文を
光格天皇と東宮であった仁孝天皇に捧呈する光栄に浴した。また、勅命によって紫野大徳寺の額に健筆を揮ったともいわれる。


                            以上、須田武雄 著 「角田無幻」 『上毛書家列伝 下』より

                       



角田無幻についてはアンビシャスMIYAMAさんのホームペー
ブログで紹介の取材が継続されています。
無幻さんの里・・・萩原賢和 1
無幻さんの里・・・萩原賢和 2




  
群馬県小・中学校教育研究会社会科部編
『群馬県を築いた人びと』
旺文社(1986/09)
団体購入価格 1,500円
本書は出版社品切れですが、正林堂ほか群馬県下の一部書店でのみ購入することができます。

 天皇に習字の手本を奉呈した書道の大家として角田無幻のことが、4ページにわたって紹介されています。




須田武雄著『角田無幻について』 
須田和秀編集・発行 (2004/03) 182p
本書は群馬県立図書館資料に紹介されたもので、現品はまだ見ていません
 

                                             文 ・ 星野 上



角田無幻と同時代の関連ページ

天明の浅間山大噴火 立松和平『浅間』
寛政の三奇人、高山彦九郎 彦九郎山河
また、赤城村といえば 無名の巨人「角田柳作」


年表を読む面白さ   伊香保神社 vs 榛名神社

磔茂左衛門と沼田藩騒動  考証 茂左衛門伝説
市兵衛地蔵堂  上州の諸街道  上州の一揆関連書



沼田藩と真田氏
 議論や分析ばかりしてないで「攻めてみよ!」
吾妻・利根の古城址
岩櫃城 名胡桃城  小川城  沼田城 
,


私のブログ内の関連記述

之を語りて平地人を戦慄せしめよ
山の民の高速道路  大疾歩(おおのり)  草の者の道  
赤谷プロジェクト 日本人はどのように森をつくってきたのか
 告発だけの時代は終わった その土地固有種の強さ
社会生産の基礎単位としての「家族力」
好きなまちで仕事を創る 遠く感じる「自治」意識



 本乃枝折 (新刊・古書など様々な検索に便利)




トップへ
トップへ
戻る
戻る


サイトの全体構造


inserted by FC2 system