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足尾ほど、観光地でもなく、幹線からかけ離れた小さな町でありながら、地元以外の多くの人々から愛され、様々な興
味、関心をもたれている町はないのではないでしょうか。
インターネットで「足尾」の検索をしてみると、実に様々なサイトが見つかります。
それは、足尾という小さな町の投げかける問題やその歴史が、あまりにも多面的に奥深いものを持っているからにほ
かならないといえます。 ![]() ![]()
田中正造に関わることを除いても、ざっとあげられる問題は以下のように多岐にわたります。
1、日本資本主義生成期、あるいは戦争遂行時の基幹産業としての足尾銅山発展の歴史
・ 先端技術導入 明治期に早くも発電所をもうけ、電車を導入したり、様々な分野で先 端技術を切り開
いたことなど
・ ピーク時(1890年)には、1万6720人にのぼる労働者数を要した最大規模の経営
体としての側面 (私立学校の開設や娯楽施設など)
2、鉱山労働者組織の先進性と足尾暴動
・ 重労働、「高」賃金下、全国から集められた鉱夫と友子組織
・ 足尾暴動と高崎15連隊の派遣
・ 歴史上特異な活動家、永岡鶴蔵
3、銅山と鉱毒被害の問題
・ よろけ病(珪肺)とじん肺法
・ 谷中村や渡良瀬遊水地、田中正造をめぐる問題
・ 伐採と鉱毒煤煙による森林破壊と緑地復元の努力の歴史
4、中国人強制連行労働の問題
このような問題に思いをはせて、完全な廃墟と化した松木村址や小滝の里に立ち、まわりを囲むこの世の景色とは
思えないような赤茶けた山肌の山々見るとき、日本のいかなる城跡や古寺にも勝る巨大な史跡の価値を感じずにはい られません。
往時には、この町が栃木県で県庁所在地の宇都宮に次ぐ人口を擁していたことなど信じられるでしょうか。
(1907年の足尾町の人口は3万4827人、戸数6133戸、栃木県では最大の都市、宇都宮に匹敵する人口が、狭い谷合にひしめき活気に溢れ
ていた。)
この狭い山あいの鉱山の歴史は、他所の炭坑や金山の歴史と比較しても際だった特長にあふれています。
世界遺産に登録することが良いこととも思えませんが、十分にそれに匹敵する歴史価値のある場所であると確信して
います。
近年、荒れた山々も緑化計画の成果があらわれ、かつての赤茶けた山肌も少なくなってきましたが、この光景を佐江
衆一氏が、「足尾から見上げたのでは“目くらまし”の緑でわからない」(『田中正造と足尾鉱毒事件研究 4』伝統と現 代社)と言っています。
「ところで私は1979年8月、中禅寺湖畔から、半月山に登った。半月山は中禅寺湖の南側にそびえる海抜1458メートルの山である。西側には
半月峠があり、かつて足尾と中禅寺湖畔との山道として、足尾・日光間の往復に使われた峠路。私は8月下旬の日、この半月山の頂上に登り、ま ず、眼下の中禅寺湖を見下し、目の前にそびえる男体山を眺め、そして目を転じて足尾の側の山なみを見てびっくりした。実に広大な山肌に樹木 がなく、地肌をむきだしている。日光の側は目にしみる緑であるのに、足尾側は画然として緑がないのである。」 ![]() ![]()
多くの人々が渡良瀬渓谷鉄道を遡り、星野富弘美術館までは足をはこびますが、その先の足尾まで訪ねる人はあま
りいません。足尾がどれほど多くのことを今日私たちに語りかけてくれる史跡か、もっと多くの人々に知っていただけた らと思います。 ![]() ![]() ![]() ![]()
残っている石垣の址だけが、往事の隆盛をしのばせる
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家族共同浴場跡
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本坑事務所から神社に向かう石段の右側にびっしりと職員住宅がならんでいたというが、この神社に至る坂を登るるとどうしても立松和平の『恩
寵の谷』のなかのワンシーンが思い浮かんでならない。
それは主人公たちがまだ足尾に来るまえの生野にいたときの話。
同じ鉱山長屋風景のなかで、主人公の鉱夫が自分の妻の体があまりに美しいので、自分だけがひとり占めにしているのがもったいなくなり、
夜、密かに長屋を抜け出し、山神社の神様に見せようとふたりで階段をかけのぼっていく。
そして深夜、神社の前に立ち、はじめはためらっていた妻が服を脱ぎ捨て、谷に向かって両手を広げたかと思う瞬間、ほんの一時、美しい妻の体
が宙に舞ったように見えた・・・・と。
まさに、この場所が、生野と同じその風景をもっている。
むしろ立松和平は、この足尾の方の神社をもとに作品をえがいているのではないかと思われるほどです。
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本山には本山神社の一段下にある長さ約80メートル、縦40メートルのグランドがあり、そこが野球の練習場でした。仕事を終えて、坑口からは
80メートルもある高台のグランドに向うのは難儀であった。
いざ練習がはじまると、低いバックネットをこえてファールボールがよく下まで落ちるので、補欠のボール拾いは大変だった。すぐ下の社宅で止ま
ればよいが、杉菜畑の職員浴場までおちることもしばしばありました。ボール一個拾うのに20分もかかるので、ヘトヘトになり練習どころではなか った。 渡辺恒雄さん
『町民がつづる足尾の百年 第2部』(光陽出版)
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松木村は、六百年もの歴史があり、大麦、小麦、大豆、小豆をはじめ野菜も採れ、何不自由なく暮らしていた。製錬
所の煙害の影響が出はじめるのは、明治16年頃からで、まず桑の葉がチリチリになり、養蚕がだめになる。明治30年 には「鉱毒予防工事」として製錬所がいまの場所に合併され、大規模になったから煙害はますますひどくなった。煙突 は高くなり、「煙力の強き故に、二里以内の草木は皆枯死し、青物は更になくなり」、やむなく村民は古河に土地を買い とらす示談にすすんでいった。
松木の住民25名は、村全体の補償金として7万5千円を要求。
古河は3万円を主張。結局、示談金を4万円とすることできまったのが明治34年12月。
この日を境に、松木からの移転が急速に始まりました。示談に応じなかったのは、私の祖父の金次郎ただ一人でし
た。父、金平は当時13歳、近所の家が次々と引越しして、遊び仲間も去っていくのをどんな思いでみていたでしょうか。
星野勝之助さん談『町民がつづる足尾の百年 第2部』より
足尾では煙害はもっぱら明治の精錬所ができてからであり、木炭による精錬の時代に煙害はなかったとされますが、公害の歴史をみると、
「攝津国多田院村の大間歩銅山の煙害が天保15年(1844)5月に問題となり、農作物への煙害のため、銅山の休止を要求するも容易には実現
せず、精錬所を農作物に被害をおよぼさない場所へ移転させることを要求した。」
安藤精一 「公害対策は江戸時代の方が民主的だった」
『江戸時代にみる日本型環境保全の源流』 農文協 (2002/09)より
といった例もあり、江戸時代の鎖国下での限られた重要な輸出品である金銀銅など産出する鉱山では、早くから様々な公害問題があらわれてい
たようです。 ![]()
この金平さんのことについて鎌田忠良の『棄民列伝・足尾廃村・松木村行』は次のように書いています。
「その日、松木探訪に向った。金平老の語る松木廃村の発端とは何か?『飼っている馬にトウモロコシをやる。それで
馬がヨダレをダラダラたらし病気になる。製錬所の煙に含まれていた亜硫酸ガスだったんだよ。亜硫酸を含んだ葉っぱ を食うから、ヨダレがダラダラになった。毒のハッパのせいだよ。皆んな急いで馬を売ったんだ。それはほんの一例だ が、煙害によって松木やその他足尾北部の村々の住民はいろんな害にさんざん悩まされたもんで、松木村とその他の 三村は廃村になった』。とり残された金平老は、正に棄民の代表的なものだ。田中正造は、渡良瀬川鉱毒事件で活躍 して、銅山をつぶさなければ鉱毒はなくならないと言った」。 ![]()
足尾砂防ダムが建設される際に、龍蔵寺に移転されたお墓のピラミッド
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